日本には数多くの伝承や言い伝えが残されています。
昨今ではあまり大っぴらにそのような、昔からの口伝を広めるような動きは見られません。
しかし伝承に対する私たちの興味のようなものは途切れているわけではないようで、新型コロナウイルスが流行すると、疫病の予言を行う人魚である「アマビエ」の存在がにわかにクローズアップされるようになりました。
今回は日本の伝承や言い伝えの中から、特に恐ろしいものを紹介します。
神隠し
神隠しとは、人間がある日突然姿を消してしまう現象を指します。
現代では誘拐などを真っ先に思い浮かべるかもしれませんが、昔の人は「神」によってさらわれたのだと考えました。
そのため、神隠しという伝承が今も残されています。
この場合の「神」とは磐座や神南備に座する、神道に列するものだけではありません。
天狗などの、今の私たちが「妖怪」と呼ぶものも含まれています。
日本各地に神隠しの伝承は残されていますが、中でも有名なものが「八幡の藪知らず」です。
八幡の藪知らずは千葉県市川市八幡にある森で、江戸時代には「必甚の祟りあり」、「竪どころに駐み死して、出る者なし」などと伝えられていました。
『水戸黄門』などで有名な水戸光圀が分け入り、虻を助けた旅人とともに戻ってくるという民話もあります。
現在も八幡の藪知らずは禁足地に定められ、ごく限られた範囲にしか立ち入ることは許されていません、
なぜ八幡の藪知らずに神隠しの伝承が伝わるようになったのかは定かではありません。
平将門の墓所が置かれた、貴人の墓所が置かれた、はたまた毒ガスが噴出しているなどさまざまです。
また現代でも1989年に徳島県貞光町(現:つるぎ町)で、わずか40秒ほど両親が目を離しただけで4歳児が行方不明になる事件が起きたり、1998年5月には群馬県の赤城神社で主婦が行方不明になる事件が起きるなど、神隠しを彷彿とさせるような怪事件はたびたび起きています。
神隠しは現代に生きる伝承と言えるでしょう。
貧乏神
引用元:https://seikatsu-hyakka.com/a
現代の日本においては、貧困は大きな社会問題のひとつです。
この貧困に大きく関係しているのが貧乏神です。
貧乏神はやせこけ、顔色の悪い老人の姿をしており、破れたうちわを持っていると言われています。
人に取り付き、その人を貧乏にします。
新潟県では大晦日の夜に囲炉裏で火を焚けば貧乏神を追い払うことができるという伝承があるなど、各地に貧乏神にまつわる伝承が残っています。
しかし貧乏神の伝承は意外と歴史が短く、江戸時代の随筆などに由来すると言われています。
曲亭馬琴らによる『兎園小説』や井原西鶴の『日本永代蔵』などに貧乏神の記述が登場しており、特に東京都文京区には『日本永代蔵』に登場する貧乏神を祀った太田神社があります。
いつの時代も貧困が恐れられていたことが窺えます。
歌い骸骨
引用元:https://www.pinterest.jp/
おそらく日本由来の骸骨の伝承で最も有名なものは「がしゃどくろ」でしょうが、これは昭和中期の創作です。
しかしがしゃどくろ以外にも日本には骸骨にまつわる民話や伝承は日本各地に存在しています。
代表的なものが「歌い骸骨」です。
歌い骸骨は鹿児島県甑島や新潟県南蒲原郡田上町に伝わる伝承で、細部は異なりますが、殺された人が歌う骸骨となって化けて出て、恨みを晴らすというお話となっています。
日本には類似の話として、東北地方から中国地方にかけて「踊る骸骨」という伝承があります。
また「死後に骸骨となって恨みを晴らす」という話は日本に限らず世界中に存在しており、グリム童話には「歌う骨」という話が、アフリカにも「血まみれドクロ」という話が伝わっています。
骸骨は人の死と非常に結びつけやすく、「死者が恨みを晴らす」という筋書きに使いやすい要素なのかもしれません。
安珍・清姫伝説
引用元:https://blog.goo.ne.jp/
安珍・清姫伝説は、和歌山県日高郡にある道成寺に伝わる伝説です。
古くは平安時代の説話集などに出てきており、文献によって記述は異なりますが、大まかなあらすじとしては以下の通りです。
あるとき、大変美形な僧侶である安珍が熊野参詣の途中に紀伊国牟婁郡(現:和歌山県田辺市)の真砂の庄に宿を借りたところ、庄の司の娘である清姫が安珍に一目惚れし、夜這いを迫ってきました。
僧侶の身である安珍は清姫の誘いに乗るわけにも行かず、仕方なく熊野参詣の帰りに寄るからと約束をします。
しかし参詣を終えた安珍は清姫のもとへ寄りません。
そのうえ裸足で迫ってきた清姫を熊野権現に助けを求めて金縛りにし、道成寺にまで逃げおおせました。
安珍に騙された清姫は怒り狂って蛇の姿に変わり、安珍の隠れた道成寺の鐘に巻き付いて安珍を焼き殺し、自らも入水してしまいました。
その後道成寺の住持のもとに安珍と清姫が夢枕に立ち、供養を頼んだため、住持は法華経の供養を施します。
すると2人は再び住持の夢に現れ、自らが熊野権現と観音菩薩の化身であると明かした、というものです。
安珍・清姫伝説は能や歌舞伎、浄瑠璃などで演目『道成寺』として人気となりました。
類似の話は中国やインド、韓国などにも存在しており、元となった話から時間をかけて派生を繰り返しながら、現在の安珍・清姫伝説になったと推測されます。
船幽霊
引用元:https://d.hatena.ne.jp/keyword/
船幽霊(舟幽霊)は水難事故によって亡くなった人々が悪霊となり、海上で目撃されたものです。
同種の伝承や民俗資料などが、日本中に存在しています。
山口県や佐賀県では「アヤカシ」と言われるほか「亡霊ヤッサ」、「亡者船」、「ボウコ」などの呼称があるほか、地方によっては海坊主も船幽霊の一種として考えられることがあります。
海上に現れるケースが多いですが、湖や沼などに現れることもあるようです。
一般に言われる船幽霊は夜中に現れ、「ひしゃくをくれ」と言ってきます。
その言葉に従ってひしゃくを渡してしまうと、ひしゃくで海水を汲んで船を沈めてきます。
対処法としては穴の空いたひしゃくを渡すこと、あるいは握り飯を海に投げ入れることなどがあげられます。
お初の松
引用元:https://www.travel.co.jp/
「お初の松」は静岡県熱海市の初島にある松です。
初島は熱海の港から高速船で行くことができる小さな島で、代々暗黙の了解によって戸数を40前後で調整しています。
伊豆には富士山にまつわる創世神話があり、初島は伊豆に作られた10の島のうち、最初に作られた島だと伝えられています。
そんな初島には、「お初の松」という松の木があります。
そしてお初の松には、とある悲恋の伝説が伝えられています。
大昔、まだ初島が貧しい島だったころ、お初という美しい乙女がいました。
お初が伊豆山のお祭りに参加した際、右近という若者に恋をします。
右近はお初に対し、「百夜通えば結婚する」という条件を設けました。
お初は毎夜たらいで海に漕ぎだし、対岸の火を目印に右近の元へ通います。
しかし99日目の夜に、お初に横恋慕する男が目印の火を消してしまいます。
するとお初は一晩中夜の海をさまよい、ついに波に飲まれて溺死してしまいました。
右近はお初を弔うために諸国巡礼の旅に出て、横恋慕した男は七日七晩苦しんで死んでしまいました。
現在もお初の松には「島の乙女のはや胸に秘めて高鳴る琴の緒の断たれて悲しい恋の火よ」と書かれた碑文があります。
肉付きの面
引用元:https://note.com/
鬼婆や山姥といった、恐ろしい形相をした鬼女の伝承は日本各地にあります。
中でも有名なものが越前国の吉崎御坊、現在の福井県あわら市に伝わる「肉付きの面」という伝説です。
昔、越前国に与惣次という農民が妻の清、母のおもとと共に暮らしていました。
与惣次は大変信心深い人で、仕事を終えると毎日、清と共に山寺までお参りに行っていました。
このことをおもとは面白く思わず、鬼の面を被って清を脅し、毎夜のお参りをやめさせようとします。
無事に清を脅すことに成功したおもとでしたが、与惣次が帰ってくる前に鬼の面を外そうとしたところ、なんと面が顔に張り付いて外れなくなっていました。
帰宅した与惣次が泣きじゃくるおもとから事情を聞くと、おもとと共に山寺を訪れます。
山寺にいた蓮如上人がおもとに御仏の教えを説き、おもとが念仏を唱えるとやっと鬼の面が取れました。
この説話はいわゆる霊験譚のひとつで、現在も福井県の西南寺にはこのときの鬼の面が残っているほか、「嫁威谷」という地名もあります。
また鹿児島県日置市の伊集院というところにも、この肉付きの面とよく似た伝承が残っているそうです。
殺生石
引用元:https://icotto.jp/
日本には「生き物を殺す石」である殺生石と言われるものが各地にあります。
殺生石は毒を振りまき、周囲の生き物を無差別に殺すと伝えられる大変恐ろしい石です。
例えば岡山県真庭市の化生寺や、福島県会津美里市の伊佐須美神社などがあげられます。
その中でも最も有名なものが、国定史跡のひとつにもなっている栃木県那須町の殺生石でしょう。
この石は九尾伝説と深い関わりがあります。
平安時代後期、鳥羽上皇が院政を敷いていた時代、鳥羽上皇は玉藻前という女性を溺愛していました。
玉藻前は若く美しい女性で、大変な博識でもありました。
その正体は中国の殷王朝の紂王を誑かし、亡国へ導いた妲己こと白面金毛九尾の狐という大妖怪であり、あるときに都の陰陽師がそれを暴きます。
玉藻前は逃亡し、現在の栃木県である那須野で武士によって討伐されてしまいます。
死後、玉藻前は石となり、周囲の生き物を殺したことで殺生石と言われるようになったと伝えられています。
そして1385年には殺生石は玄翁和尚という僧侶によって砕かれ、日本各地に飛散しました。
余談ですが、大きな金づちを「玄能」と呼ぶのはこの玄翁和尚に由来しています。
また殺生石の逸話のある石の多くは火山地帯にあり、火山性ガスによって多くの生物が死んだことから殺生石と言われるようになったとも言われています。
桜の精
桜といえば、日本の春の風物詩とも言える花です。
美しく咲き、花散らしの風によってあっけなく散ってしまうさまが日本人の心情によく響くのでしょう。
そのためか桜といえばやはり儚げというイメージが先に立ちますが、桜にまつわる伝承にはこの一般的なイメージとは異なるようなものも少なくありません。
特に長野県安曇野市には桜にまつわる恐ろしい伝承が伝わっています。
あるとき、九兵衛という猟師が山中で道に迷っていると、17、8歳ほどの美しい女性に出会います。
女性は蝋のように透き通った白い肌とつややかな黒髪、人懐こくくりくりと輝く目をしており、九兵衛は心惹かれてしまいました。
里へ戻った九兵衛は女性のことが忘れられず、再度山へ分け入ります。
その後、しばらくして村人に見つかった九兵衛は桜の花びらに埋もれ、幸せそうな表情で息絶えていたというのです。
九兵衛が出会った女性は桜の精であり、九兵衛の生気や心を吸い上げてしまったのです。
梶井基次郎の『桜の樹の下には』には、「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という一節があります。
あまりにも儚げで美しいからこそ、かえって妖気のようなものを感じてしまうのかもしれません。
ヒダル神
行楽シーズンなどには、ハイキングやトレッキングなどで山に入る機会も多いでしょう。
そんなときに気をつけたいのがヒダル神という憑き物です。
ヒダル神は餓死者や変死者の霊が化けたもので、主に西日本で広く伝えられています。
「ダリ」や「ダル」、「ダラシ」とも言われます。
山道や峠を歩いているとヒダル神に取りつかれ、空腹感や手足のしびれ、動けなくなるなどの異変が生じ、最悪の場合死に至ることもあります。
なんとあの徳川家康も本能寺の変の際にヒダル神に取りつかれたという逸話があるそうです。
対策としては食べ物を一口食べる、手に米と書いて舐めるなどの方法が一般的で、地方によっては食べ物を近くの藪に捨てる、着ている衣服を後ろに捨てるなどの方法もあります。
また高知県や長崎県、鹿児島県などの一部地域では道端に「柴折様」と言われる祠があり、そこに柴を供えることでヒダル神に取りつかれなくなるとも言われています。
一説によると、ヒダル神は単なる伝承ではなく、生活の知恵のようなものだと言われています。
ロードレースやマラソン、登山といった耐久系の競技では競技中に極度の低血糖に陥り、意識の低下を引き起こす「ハンガーノック」という現象が起こることがあります。
ハンガーノックは簡単にいえば身体のエネルギー切れであり、耐久系の競技ではこれを防ぐためにこまめに補給食を摂っています。
昔は長距離移動で山や峠を徒歩で越える機会も多く、ハンガーノックがより身近な現象であったと考えられます。
当然、当時はハンガーノックや低血糖といった言葉やメカニズムについては判明していなかったため、ハンガーノックの症状やその対策がヒダル神という逸話になって語り継がれたのではないかと言われているのです。
登山をするときは事前に装備をしっかり整え、何か軽く食べられるものを持っておくとハンガーノックを防ぐことができるので、覚えておきましょう。
髪切り
「髪は女の命である」などとも言いますが、昔は男女ともに髪を結わえる習慣があったため、現代よりも髪ははるかに大切な存在でした。
そんな時代に恐れられたのが「髪切り」という妖怪です。
江戸時代から明治時代にかけてその存在が囁かれました。
名前の通りどこからともなく現れて髪を切る妖怪で、寛保年間に編まれた『諸国里人談』という説話集では、元禄年間の頃から伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)や江戸の紺屋町(現在の東京都千代田区)で夜中に男女構わず元結いから髪を切られる事件が多発しているという話があります。
「黒髪切り」などとも呼ばれますが、髪切りが両腕をハサミ状にしたものであるのに対し黒髪切りは真っ黒な人型と、両者はまったく異なる姿で描かれており、別物ではないかと考えられます。
明治7年には東京都本郷3丁目の鈴木家で、召使をしていたぎんという女性が髪切りの被害に遭ったという記述があります。
しかし明治期以後は髪を結う習慣も廃れ、現在のザンバラ頭が主流となったため、次第に髪切りの脅威は薄れていきました。
髪切りの正体は諸説あります。
キツネや髪切り虫(昆虫のカミキリムシとは異なる)という虫の仕業によるものだという説もあるほか、かつら屋がかつらを売るために起こした騒動だとも言われています。
また髪や髪を切ることに対して快楽を感じる人による仕業だという説もあります。
実際の被害者は女性が圧倒的に多いことからも、性的嗜好者による犯行だという線は強いでしょう。
平将門伝説
引用元:https://www.poke.co.jp/
平将門は平安時代の豪族であり、「新皇」を自称して当時の朱雀天皇に弓を引き、藤原秀郷らによって討伐されました。
しかし平将門が有名なのは、むしろ死亡した後のことです。
死後、平将門は京都の七条河原に首が晒されたのですが、その首は目を見開き、歯を食いしばっていたと言われています。
歌人の藤六左近が首を前に歌を詠むと突如空に稲妻が光り、地響きが起き、平将門の首が笑い出しました。
そして「躯つけて一戦させん。俺の胴はどこだ」と叫び、毎夜騒ぎ立て、ある夜に東のほうへ飛び去ったと伝えられています。
このとき平将門の首が落ちたのが、現在の東京都千代田区大手町にある平将門の首塚(将門塚)だと言われています。
平将門については多くの伝説が語り継がれており、似たような内容でも仔細が異なるなど多様に発展しています。
このことから、平将門は菅原道真、崇徳院と合わせて日本三大怨霊と言われます。
平将門伝説が恐ろしいのは、今もなお影響を失っていない点にあります。
大手ゲーム会社アトラスは自社制作ゲームである『女神転生』シリーズに平将門を登場させました。
今日でも歌舞伎の演目などに平将門伝説が用いられることがありますが、祟りを恐れてお祓いを受けることが暗黙の了解となっています。
しかしアトラスはお祓いを受けずにゲーム制作を敢行しました。
するとその結果、発売1か月後に親会社であった株式会社インデックスが粉飾決算により破産状態に陥ってしまいました。
そのうえ製作途中にも攻略本に平将門のイラストの右手が切れた状態で掲載したら、担当スタッフが右手を怪我した、原因不明の高熱にスタッフが悩まされるなどの異常事態が相次ぎます。
極めつけは、『女神転生』作中で起きた事件が発売から2年後に起きてしまいます。
あの「井の頭公園バラバラ殺人事件」です。
アクシデントが相次ぐことでアトラスのスタッフも考えを改め、将門塚への参拝と神社でのお祓いを受けてからゲームを作るようになったと言われています。
写真に撮られると魂を抜かれる
現在では写真は私たちの生活の中で欠かせない存在です。
わざわざフィルムなどを使わずとも、スマートフォンなどで気軽に写真を撮り、残しておくことができます。
しかし日本に写真が入ってきた当時には、「写真に撮られると魂を抜かれる」という恐ろしい噂が流れていました。
当然そんなことはありえません。
このような噂が流れたのは、日本に輸入された当時の写真撮影技術による影響だと考えられます。
日本に写真が入ってきたのは、1841年のことです。
当時はまだネガ・ポジ法が開発されて間もない頃で、日本に入ってきたのはそのひとつ前の方法である「ダゲレオタイプ」と言われるものでした。
写真撮影技術の進歩は露光(フィルムや乾板に光を当てること)時間の短縮の歴史です。
現在の撮影技術では露光に10秒とかかりませんが、ダゲレオタイプでは30分もかかっていました。
露光の間、被写体は静止していなければなりません。
動かないものを撮影するのであれば問題は少ないですが、人物を撮るときは、撮られる人は30分同じ姿勢を保たねばなりませんでした。
30分も同じ姿勢を取り続けるために疲労が蓄積し、ときに倒れる人もいたために「魂を取られる」などという風説が流行ったと考えられます。
当時の写真に苦い顔をしていたり、頬杖を突いたものが多いのも、ダゲレオタイプによる撮影だったためです。
また写真にまつわる怖い噂話としては「真ん中に写った人は早死にをする」というものがあります。
これは写真が入ってきた当時、複数人で写真を撮影する場合は年長者を最も写りのいい真ん中に据えたことが多かったことに由来しています。
年長者であれば、早くに亡くなるのも道理でしょう。
彼岸花は縁起が悪い
彼岸花といえば、一面に赤い花を咲かせる姿が美しくもあり、どこか不吉にも思える花です。
実は彼岸花には地方によって1000種類以上もの呼び名があり、中には「葬式花」、「死人花」、「幽霊花」などという不吉な名前もあります。
また彼岸花には「持ち帰ると火事になる」などの言い伝えもあります。
このような不吉な呼び名や言い伝えがあるのは、彼岸花が墓地でよく見られるためだと考えられます。
墓地、つまりあの世に咲く花であるために不吉だと恐れられているのです。
ではなぜ墓地に彼岸花が多く咲いているのか、と疑問に思うかもしれません。
これには大きく2つの理由があります。
ひとつが墓地を守るためです。
昔、日本では土葬が一般的でした。
そのため遺体をモグラなどから守るため、球根に毒を持つ彼岸花が植えられたのです。
同じ理由であぜ道などにもよく彼岸花は植えられています。
もっとも食害対策としてはあまり効果はないとも言われています。
もうひとつが飢饉対策です。
彼岸花の球根は有毒ですが、デンプンを多く含みます。
乾燥させた球根を粉末にし、水に晒すことで毒素を取り除くことが可能なため、救荒作物として植えられたのです。
家に彼岸花を持ち帰ると家が火事になるという言い伝えも、うっかり誤食しないよう戒める意味合いもあったのかもしれません。
件
引用元:https://edo-g.com/
件は江戸時代から昭和にかけてその存在が噂された妖怪です。
漢字で人偏に牛と書くように、牛の身体に人間の顔をした、あるいは人の身体に牛の顔をしています。
身体的特徴だけあげると、ギリシャ神話のミノタウロスなどのようですが、件にはある大きな特徴があります。
それは予言です。
件は人間の言葉を話し、生まれて数日で死ぬ間に、災害や干ばつ、疫病の流行などの重大事を予言すると言われています。
また生まれてすぐに予言をし、死んでしまうとも言われています。
件は江戸時代末期から西日本を中心にたびたび目撃談が報告されており、現代でも阪神大震災や東日本大震災の前後に件が目撃されたそうです。
首切れ馬
引用元:http://tyz-yokai.blog.jp/
首切れ馬は福島県や八丈島、淡路島、愛媛県など日本各地に伝わる馬の妖怪です。
文字通り首のない馬の姿をしており、伝承によっては神様や「夜行さん」と言われる鬼が乗っていることがあります。
伝承はさまざまですが、共通することとして夜中など、決まった時間帯に首切れ馬が現れ、徘徊します。
「首のない馬」というモチーフは世界各国に存在しています。
アイルランドでは首のない騎士であるデュラハンが首のない馬であるコシュタ・バワーに乗っているという伝承があるほか、ブラジルには首なしラバの民話があります。
トイレの花子さん
トイレの花子さんといえば、学校の怪談、七不思議などでもおなじみの言い伝えです。
地方や学校によってさまざまなバリエーションがありますが、最もポピュラーなものとしては「学校の校舎の3階にあるトイレで、トイレを3階ノックし、『花子さん、いらっしゃいますか?』と問いかける行為を一番手前の個室から行うと、一番奥の個室で返事が返ってくる。そしてそのトイレの扉を開くと、花子さんにトイレに引きずり込まれる」という話があげられます。
トイレの花子さんはおかっぱ頭で、赤いスカートを履いており、フルネームは「長谷川花子」だと言われています。
また白のワイシャツを着ているというパターンもあるようです。
トイレの花子さんという話は1950年代に流行した「三番目の花子さん」という都市伝説が元となっており、1980年代から流行し始めました。
しかしトイレの花子さんの話のルーツをたどると、ただの怪談話と断じることも難しくなります。
古来、日本ではトイレに「厠神」、「雪隠神」、「部屋神」と言われる神様がいると考えられてきました。
仏教では「烏枢瑟摩明王」、神道では「埴山姫神」、「水罔女神」が厠神にあたり、トイレをきれいにすることで祀り上げられます。
またこのほかにも地域によってさまざまな形の民間信仰があります。
そしてこの中には、トイレの花子さんと重なる部分のある話がいくつか存在しています。
例えば茨城県ではトイレに白と赤の人形を飾り、秋田県では女の服を着せた藁の人形を飾るという風習が残っています。
現在では厠神信仰は下火になってしまいましたが、トイレの花子さんという怪談話となって今も生き残っているのです。
口裂け女
引用元:https://radichubu.jp/
口裂け女は1979年の冬頃に流行した都市伝説のひとつです。
夜、外を出歩いていると、口元をすっぽり覆うほどの大きなマスクをつけた女性が「私、きれい?」と尋ねてきて、「きれい」と返すと「これでも?」とマスクを外して耳元まで大きく裂けた口を見せつけてくる、という話です。
「きれいじゃない」と答えると、口裂け女が手にした刃物で殺されてしまうと言われています。
「ポマード」と3度繰り返す、べっこう飴を差し出すなどの対処法があったとも言われています。
口裂け女は1980年の夏には社会問題となり、パトカーの出動騒ぎや集団下校にまで発展しました。
ちなみに中国や韓国でも口裂け女の話は知られています。
口裂け女の噂は1978年に岐阜県で囁かれはじめ、1979年に『岐阜日日新聞』に掲載されたものが初出だと言われています。
岐阜では1754年に発生した農民一揆の犠牲者の怨念がまだ残っており、姿を変えて口裂け女になったとも、また塾に通いたがる子どもをいさめるために作った話が広まったとする説もあります。
一方、口裂け女の話が流行する数年前から耳元まで口の裂けた女が脅かしてくる「整形オバケ」という都市伝説が既に存在していたという話もあるようです。
また江戸時代の怪談本にも、耳元まで口の裂けた女性が登場する話がありました。
このように、口裂け女の話は意外にも歴史の古い言い伝えである可能性があるのです。
サンカ
引用元:http://blog.livedoor.jp/
サンカとは日本に存在するとされてきた、独自の生活スタイルを有する放浪民のことです。
サンカは特定の居住地や戸籍などを持たず、山地を放浪しながら狩猟生活を送る人々です。
箕を作って交易をしているサンカもいました。
地域によって「箕作り」、「テンパモン」などと言われたほか、サンカ自身もサンカという呼称をあまり好んではいなかったと言われています。
明治8年の邏卒文書(警察文書)に「山窩・山家は雲伯石三国辺遇の深山幽谷を占居す」とあるように、サンカという呼称は警察が主に使っていたものでした。
サンカは独特の言語・文字や文化を有していたといわれ、その起源は『古事記』、『日本書紀』にまでさかのぼることができると言われています。
ただ実際のところサンカについての資料は多くなく、実在すら確かではありません。
サンカについては、上古の時代にヤマト王朝への服属を拒んだ人々の集まりだとも、中世や近代にかけて焼き出された難民の集まりだとも、被差別集落を指す方言が広がったものだとも言われています。
現在、サンカは都市部などに吸収され、消滅してしまったとされています。
百物語
引用元:https://kukubuku.net/
怪談番組などで、百物語というものを耳にする機会は少なからずあるのではないでしょうか。
百物語は百物語で語られる怪談はもちろんのこと、百物語自体も恐ろしい伝承のひとつです。
古くは江戸時代の『諸国百物語』や『御伽百物語』、『太平百物語』など怪談話をまとめた文芸作品に登場しています。
百物語は夜、数人で集まって100本のロウソクに火を灯し、ひとつ怪談を語り終えたら1本ロウソクを消します。
そしてロウソクがすべて消えると、真っ暗になった部屋に化け物が現れるそうです。
そのため実際に百物語を行うときには、99本で留めておきます。
江戸時代以前はロウソクの代わりに、100の灯心を用いた行灯で百物語を行っており、100すべて消すと「青行燈」という妖怪が現れたそうです。
百物語の起源は諸説あり、平安時代、鳥羽上皇が灸治を受けている際に退屈を紛らわせるために近侍に順番に話をさせたものだとも、主君の傍に仕えて話をした御伽集だとも言われています。
現代でもセガサターン向けのゲームとして1997年に発売された『古伝降霊術 百物語〜ほんとにあった怖い話〜』では発売後20年経った現在も怪奇現象が報告されるなど、いわくつきのゲームとして知られています。
まとめ
今回は日本の恐ろしい伝承や言い伝えを紹介しました。
伝承や言い伝えの多くが、現代の日本では否定されているか、忘れられてしまっています。
しかし決して失われたわけではなく、日常のふとした機会にそれらが再び立ち現れて、私たちの前に存在感を示します。
伝承などは、古来の生活の知恵や戒めが込められていたり、意外なところにルーツがあったりします。
今一度立ち返ると、発見があるかもしれません。