子供の頃、お爺ちゃんやお婆ちゃんの膝の上で聞いた昔話。
不思議で夢があって楽しいお話に混じり、時々ドキリとするようなものがありませんでしたか?
そして大人になって振り返った時、一見ほのぼのとしたお話しの中にすら、残酷な一面が潜んでいることに気づいたことはないでしょうか?
昔話とは元来文字ではなく人々の口から口へと伝わり広がった物語であり、時代の風潮が如実に反映される都市伝説にも似た性質を持っています。
今回は怖い昔話・子供向けでない側面を持つ物語を集めてみました。
第壱話 飯降山
引用元:https://blogs.yahoo.co.jp/
尼さんでも、殺る時は殺ります。
あらすじ
三人の尼が厳しい修行をするため山に入った。
一番若い尼はとても可愛らしく、真ん中の尼はおっとりとマイペース、最年長の尼は仏のように穏やかで柔和を絵に描いたような女性だった。
そんな三人が修行する山には住む家もなく、食べ物は野草に木の実ばかり。
まさに殺生禁止の過酷なサバイバルライフだ。
ある日、どうした奇跡か空から三つのオニギリが降って来た。
尼たちは御仏のお恵みだと感謝し、オニギリを有難く頂く。
それからというもの、空からは毎日三つのオニギリが降って来るようになった。
しかしほどなくして、尼たちは一人一つのオニギリでは飽き足らなくなる。
ここで最年長の尼と二番目の尼は結託し、最年少の可愛い尼さんを殺害。
こうすれば二人で三つのオニギリを食べられる、つまり一人当たりの取り分が増えるという寸法だ。
だが予想に反し、その日からオニギリは二つしか降って来なくなった。
最年長の尼さんは業を煮やし、可愛い尼さんを殺したことを悔やみ始めたオットリ尼さんをも殺害。
二つのオニギリを独り占めせんと楽しみに待つも、その日を境にオニギリは二度と降らなくなった。
やがて厳しい冬が来て季節は春に。
山姥のようになった最年長の尼は、狂気の笑みを浮かべ一人山を下りた。
実在する山 飯降山
この物語の舞台となった『飯振山』は福井県に実在する山です。
標高884.3m、富士山などと比べれば決して高い山ではなく、極寒地獄と化す東北の山々ほど厳しくもありません。
しかし、女性三人が殺生禁止の着の身着のままでサバイブするには、十分以上に過酷な環境です。
そもそも、テントも寝袋もなしに地ベタで毎晩寝ること自体が苦行です。
ひ弱な現代人など、関東のキャンプ地で9月にテントを張っていても、ちょっと寝袋忘れたら寒いわ痛いわで眠れません。
それを毎晩、ロクな物も口に出来ない飢餓状態で行うのですから、尼さんたちがいかに極限状態であったかわかるというものです。
女子の三人グループは鬼門
この物語の恐ろしさの一つは、凶悪な妖怪や獣、横暴な殿様や庄屋といった明確な悪役が存在しないことにあります。
三人の尼さんはオニギリが降ってくるまでは互いに励まし合い助け合い、感謝の心を忘れず修行に励んでいました。
それがある日空からオニギリが降って来たことによって、彼女らの歯車は狂ってしまいます。
昨日まで力を合わせていた仲間同士が、オニギリのために殺し合う。
これだけで既に子供向けとは思えない凄惨さがありますが、さらに陰湿さを感じさせるのが殺された順番と手口です。
毎回三つのオニギリの前で三人で殴り合い、勝った者が一人で三つ食らう。
結果としてある日誰かが死んだ。
これならば『まぁ仕方ないか』という気がしなくもありません。
何故ならば、いよいよ無理だと思ったら夜逃げでもなんでもして山を下りれば済むからです。
それをせずに死ぬまで意地を張り通したならば、厳しいようですが自己責任でしょう。
修行も何も命あっての物草、かのブッダでさえ『ヤバイ死ぬ!』と本気で思えば断食を途中放棄し、スジャータの差し出す山羊の乳粥を有難く頂いたのだから、尼さんが己の限界を悟って下山したところで何ら恥じることはありません。
けれども二人の尼さんは表面上は仲間の顔をしたまま、一番年若くパワーバランス的に弱い尼さんを結託して殺しました。
それも正面切ってではなく、闇討ちのような形で。
女子特有の苛めの形そのままで、非常に生々しい図式です。
仲良し三人グループに何らかのトラブル発生→リーダー格が一人に声を掛け、二人で一人を弾く算段をする→リーダーには逆らえない、逆らって自分が弾かれてはたまらない→一番弱い子が弾かれる
学校やママ共ならば仲間外れで済むことも、極限状態ともなれば殺人に発展してしまいます。
いくつになっても、御仏に仕えていても、女子の三人グループはやはりトラブルになりやすいようです。
飢えるということ
たかがオニギリくらいで殺し合いなんて……と、現代人の多くは心のどこかで思うのではないでしょうか?
しかし、極限の空腹は人間を獣にかえ、正常な思考力・判断力を奪います。
頭の中が食べ物で一杯になって、他のことが一切考えられなくなるのです。
そうでもなければ、オニギリのために人を――仲間を二人も殺せません。
とある太平洋戦争経験者に聞いた話ですが、彼は空腹のあまり支給されたエビオス(整腸剤)一瓶を一夜にして貪り食い、翌日上官にバレて死ぬほど殴られたそうです。
彼の名誉のために言っておきますが、彼は当時『インテリ』『知識階級』と呼ばれる大学出の志願兵であり、決して平素から知能の低い人間ではありませんでした。
ちなみに同部隊には、正露丸一瓶を食い尽くした強者もいるとか…飢えとはかくも人の正気を蝕むのです。
本末転倒な選択
①一度山籠もりは諦めて里に下り、修行に耐えられるように心身を鍛え直して再挑戦
②仲間を殺し、オニギリを奪ってでも修行をやり遂げる
普通ならば考えるまでもなく①を選択するでしょう。
そもそも尼さんたちが草や木の実しか口にしなかったのは、御仏に仕える身で殺生厳禁だったからです。
魚や山鳥を殺して食うことすら御法度だというのに、オニギリ欲しさに人間殺して修行続行。
仏道修行のために仏道最大の禁忌殺人を犯しているのですから、本末転倒以外の何物でもありません。
カニバリズム疑惑
最初に殺された若い尼さんを除く二人には、カニバリズムの疑いがあるとする説があります。
特に最後まで生き残った最年長の尼さん。
一番の高齢でありながら、猟師も冬場は近づかないような山中に一人残って越冬迎春。
山姥のように変わり果てた姿で里に現れた年寄尼さんは、一体冬の間何を食べて生命を繫いでいたのでしょう?
アニメ日本昔話では三人の尼さんを見守り続けた猟師目線の語りが入るのですが、彼はオニギリが空から降って来る現場を見ていません。
穿った見方をするならば、精神錯乱した年寄尼さんの言葉を猟師が鵜呑みにしているだけで、本当は初めからオニギリなどなかったのではないか?
オニギリ=尼さんの数で、一人殺して食ったらオニギリは二つに。
二人殺して食えば残りは自分だけだからおにぎりはゼロに。
いずれにせよ仲間殺しの年寄尼さんに天罰が下るわけでもなく終るので、勧善懲悪的なカタルシスはなく不気味な後味だけが残る良い怪談です。
第弐話 食わず女房
引用元:https://yamadas.blog.so-net.ne.jp/
日本各地に様々な名称で伝わる異類婚姻譚の一つ。
ケチも過ぎれば身を滅ぼす?
あらすじ
あるところにドケチな男がいた。
男は独り身だったが、常々『飯を食わずに良く働く女がいるなら嫁にしたい』と無茶な願望を口にしていた。
ある日、男の要望通りの女が訪れ『嫁にしてくれ』と言う。
男は都合の良い女に大喜びして彼女を嫁に迎えた。
女はとても良く働き、飯をまったく食おうとしない。
望み通りの女房を手に入れてご満悦だった男だが、ある時ふと自分の家の米俵が少なくなっていることに気づく。
不審に思った男は仕事に出るふりをして女房の動向を見張ることにした。
すると女房は大量の米を炊き、髪をかき分け頭頂部にある大きな口から米を次々に飲みこむようにして食らうではないか。
女房が化物であることを知った男は女房に離縁を言い渡す。
女房は本来の化け物の姿に戻り、男を風呂桶に入れて山の中の自分の家へと駆けだした。
男は何とか隙をついて逃走。
そうとは知らない化物女房は実家のある化物村に戻り、『美味そうな人間を連れて来た』と仲間を呼ぶ。
ところが、桶の中には男がいない。
怒った化物女房は男を探して引き返し、草むらの中に隠れた男をすぐに見つける。
だが、どうしたわけか化物女房は草むらに入ろうとしない。
男が飛び込んだのはヨモギと菖蒲の生えている湿地帯だった。
剣のように鋭く尖ったヨモギと菖蒲が、化物女房の目を突き身体を傷つけ退けたというわけだ。
以来、端午の節句にはヨモギ餅を食べ菖蒲湯に入るようになった。
ビジュアルからして怖い
シンプルに化物女房のビジュアルが恐怖です。
頭頂部にぱっかりと開く大きな口が、ガツガツとものを貪る。
食べているものが白米だったから良かったものの、これが鶏とかだったら相当スプラッタな絵面になっていたことでしょう。
直接この物語とは関係ありませんが、岡山を舞台とする岩井志麻子の『ぼっけぇきょうてぇ』では、このタイプの遊女が登場します。
頭頂部に口ではなく、側頭部に口のついた手が生えています。
有り得ない場所に口がついている不気味さがおわかり頂けるでしょうか?
悪夢のように鮮やかにして抑えた色彩の中、生々しく不条理な物語が展開される『ぼっけぇきょうてぇ』はお勧め映画の一つです。
東西2パターンある物語
食わず女房には東日本と西日本で異なる物語があります。
上のあらすじでご紹介したのは東タイプ。
これが西タイプになると化物女房の正体は蜘蛛になります。
①夜な夜な巨大蜘蛛になって飯を食う女房に気づき、男が囲炉裏の火で焼き殺す。
②正体のバレた女房が山にいる子供のために男を連れ去るが逃げられ、大晦日の夜襲いに来て囲炉裏の火で焼き殺される。
この二つが基本形です。
東タイプがヨモギと菖蒲ならば、西タイプは『夜の蜘蛛は親に似ていても殺せ』『大晦日の囲炉裏の火は神聖なものである』といった俗信の由来譚として語られています。
女房の正体・考察
化物女房の正体は、鬼・山姥・蜘蛛・狸・河童・蛇などかなりバリエーションが豊富です。
ここではもっともポピュラーな鬼・山姥説で考察します。
女房は正体を現すと、山にある実家に男を連れ去ろうとしました。
そして山里には女房の仲間である鬼・山姥の一族が住んでいると書かれています。
鬼や山姥だけが住んでいる特殊なコミュニティが山の中にある。
単独行動の多い鬼や山姥にこの類の設定は珍しいものです。
有名なところでは『桃太郎』の鬼ヶ島がありますが、他にはあまり覚えがありません。
そもそも山姥とは何か?
これにも様々な説が唱えられていますが、柳田国男の山の民説、捨てられた老婆説、精神疾患その他の理由で村から追放された者説など、マジョリティから排斥されたマイノリティを示唆する説が多く見られます。
化物女房の正体がそうした閉ざされた集落(大きな戦の敗者が落ち延び身を寄せ合う隠れ里、大和朝廷に逆らった土蜘蛛のような人たち)の女だとしたら、外部からの新しい血を入れるために力技で男を浚った可能性もあるのではないでしょうか。
頭頂部に口があるというのも、当時の一般的な生活形態とは異なる暮らしを営む山の民を妖怪視したものと考えれば納得です。
実際、唐笠お化けや一つ目小僧といった妖怪は、鍛冶製鉄を生業とする山の民がモデルであるという説があります。
第参話 桃太郎
日本昔話の中で誰もが知っている有名な作品『桃太郎』。
しかし、現在の形になるまでにいくつかの変遷があったこと、都市伝説めいた謂われがあることを御存じでしょうか?
桃から生まれてない桃太郎
お爺さんは山に柴刈に、お婆さんは川に洗濯に。
大きな桃がどんぶらこ。
割ったら中から男の子、桃から生まれた桃太郎。
***
桃太郎と言えば当然コレ。
教科書や絵本に乗ってるのもこのスタイルです。
しかし、元々の形は違いました。
なんと桃太郎は極普通にお爺さんとお婆さんから生まれて来たのです。
川から流れて来た美味しそうな桃を喜んで持ち帰ったお婆さんは、お爺さんと二人で桃を食べました。
するとどうしたことでしょう。
お爺さんとお婆さんはすっかり若返り、各方面の元気を取り戻し早速子作りに励んだというわけです。
子供に聞かせるには生々しい話ですが、江戸時代の口承民話や赤本(表紙の赤い絵冊子)まではこの『回春型』の方がメジャーでした。
そもそもこの時代の書籍は、現代のように大量印刷で同一内容のものを全国販売しているわけではありませんから、内容は地域によってかなりバラバラなのです。
実際、殿様に命令されていやいや鬼退治に行くニート太郎もいました。
桃から生まれる『果生型』に一本化されたのは、明治20年に小学校の教科書『尋常小学読本』に選定されてからです。
さすがに小学校一年生に、若返った老人夫婦が即座に夫婦生活を再開…とは説明しづらいですよね?
桃であることの意味
桃は当時たいへん貴重で高価な果物であり、食べれば不老長寿を得ると伝えられていました。
そしてその形は、女性器のメタファーであるとも言われています。
中国の伝説でも西王母の蟠桃会(ばんとうえ)は有名であり、神仙が集って蟠桃と呼ばれる不老長生の桃を食べています。
ちなみにこの日は三月三日、日本で言う所の雛祭り・桃の節句にあたります。
桃太郎の歌 4〜6番が本番です
ももたろさん ももたろさん
お腰につけた キビダンゴ
ひとつ 私に下さいな
あげましょう あげましょう
これから鬼の 成敗に
着いて行くなら あげましょう
行きましょう 行きましょう
あなたについて どこまでも
家来になって いきましょう
***
ここまでは比較的誰もが知っている『桃太郎の歌』1〜3番。
内容を見ても、たかがキビダンゴ一つで『家来になってどこまでもついて行く』宣言をするお供のメンタル以外、これといった問題はありません。
しかし、実はこの歌は6番まであり、どんどん面白くなるのです。
***
四番
そりゃ進め そりゃ進め
一度に攻めて 攻め破り
潰してしまえ 鬼ヶ島
***
なかなか戦への覇気が溢れた良い歌詞です。
寡兵で多勢、しかも敵の本拠地に乗り込む城攻めとあらば、奇襲をかけて一気に潰すのは兵法として間違っていません。
長期籠城戦などされては、補給線のない桃太郎サイドは圧倒的に不利です。
倒した後に和睦を結び利を得る予定がないならば、遺恨を残さぬよう殲滅するのも賢明でしょう。
五番
おもしろい おもしろい
残らず鬼を 攻め破り
ぶんどりものを えんやらや
***
我が策が当たっての勝ち戦、一軍の将にとってそれは至福の喜び。
ぶん取りは戦国の世の習い、元々は鬼たちが盗んだ金銀財宝を勝利者である桃太郎が手にするのは当然の権利です。
盗品なのだから返すのが筋と言う説も見受けられますが、鬼に返り討ちにされるリスクを犯し奪い返したのは桃太郎一行ではありませんか。
ハイリスク・ハイリターン、権利を主張出来るのは戦って手を汚した人間だけです。
六番
万々歳 万々歳
お供の犬や 猿雉は
勇んで車を えんやらや
***
凱旋の晴れやかさが出ています。
死と隣り合わせの戦を生き延び勝ち残ったのだから、このくらいテンション上がるのも納得です。
こうした桃太郎の行動を侵略だのなんだのと批判する向きもありますが、室町時代以前からある物語なのでこのくらい猛々しくて当然でしょう。
桃太郎元服姿
大人になった桃太郎の物語『桃太郎元服姿』は、安永8年(1779)に書かれた絵入りの文献です。
かつて桃太郎に退治された鬼ヶ島の鬼の残党が、奪われた宝物を取り返すために娘を桃太郎の家に下女として送り込みます。
しかし娘は桃太郎に懸想し、父の言いつけと恋の板挟みに苦しみ自害してしまうという悲恋物語です。
引用元:http://www.arc.ritsumei.ac.jp/
桃太郎発祥の地は岡山説
桃太郎と鬼ヶ島には実在のモデルがあるとする説。
これによると桃太郎のモデルは紀元前3世紀頃に活躍した第7代天皇・孝霊天皇の息子、吉備津彦命(きびつひこのみこと)となります。
吉備津彦命は神武天皇時代に吉備(現・岡山)を支配し人々を苦しめた百済からの渡来王子・温羅(おんら)を打ち、吉備の支配者となったという伝説があります。
この温羅が様々な悪事を働いていた根城を、人々は恐ろしさから『鬼の城』(きのじょう)と呼んでいました。
現在でも岡山県では鬼の城跡を見ることができます。
引用元:http://www.city.soja.okayama.jp/
桃太郎にまつわる都市伝説・間引き説
日本がまだ貧しかった時代、一家全滅を免れるために産まれたばかりの赤子を川に流す『間引き』という風習がありました。
川に流された子供=川から流れて来た桃から生まれた赤子
つまり桃太郎とは、間引かれ川に流されながら優しい老夫婦に救われた赤子だというのです。
お供の三匹は犬=居ぬ、猿=去る、雉=帰路を意味し、間引きされた子供のメタファー。
生き延びた桃太郎が彼らをお供にすることで、安らかな成仏を願っているとされています。
桃太郎にまつわる都市伝説・近親相姦説
こちらはかなり悪趣味な都市伝説。
***
桃で若返ったお婆さんとお爺さん、そして驚異の成長スピードで育っていく桃太郎。
若い(一人は少年ですが)男二人に女が一人、嫌な予感しかしない。
桃太郎は育つにつれお婆さん=母親を女として愛し、お婆さんもまた息子である桃太郎を男として愛すようになっていた。
こうなると邪魔なのはお爺さん。
桃太郎とお婆さんはお爺さん殺害を企てた。
けれどもお爺さんは山の神に守られている存在で、一筋縄では殺せない。
そこで二人はお爺さんを呪殺するために、犬を殺して皮を剥ぎ、猿を殺して皮を太鼓にし、雉を殺してその魂をお爺さんのいる山に放つ。
結果、二人はお爺さん殺害に成功し、末永く愛し合い幸せに暮らしました。
***
何とも都市伝説らしいどぎついお話ですが、西洋の近親相姦が父系メインであるのに対し、日本のそれは母系が多いというポイントを押さえることでリアリティが演出されています。
第四話 赤い蝋燭と人魚
引用元:http://seiga.nicovideo.jp/
人間に育てられ裏切られた悲劇の人魚の物語。
あらすじ
北の暗い海に身重の人魚が住んでいた。
暗い海があんまり寂しくて、『こんな所で生まれ育つのは子が哀れ』と考えた彼女は海辺の街の神社で我が子を産み落とすことにした。
人間は優しく、人間の町は明るく楽しい場所だと聞いていたからだ。
翌朝、神社に捨てられていた人魚の赤ん坊を拾った蝋燭屋の老夫婦は、赤子をとても大切に育てた。
やがて美しく育った人魚娘は、家業を手伝い白い蝋燭に赤く絵付けをするようになった。
人魚娘の蝋燭を灯して漁に出ると海で時化にあっても無事に帰れると噂になり、蝋燭屋はかつてない大繁盛。
しかし人魚娘と老夫婦の穏やかで幸せな暮らしは、評判の人魚に目を付けた香具師によって破られる。
香具師は人魚娘を売るように老夫婦に頼み込んだ。
老夫婦は最初こそ断ったが、提示された金額の大きさと『昔から人魚は不吉』という香具師の言葉に乗り、結局は人魚娘を売り渡してしまう。
人魚娘は老夫婦の元を離れたくないと懇願したが、金に目の眩んだ老夫婦はもはや聞く耳を持たなかった。
ある月の明るい晩、いよいよ人魚娘が檻に入れられ連れていかれることに。
人魚娘は最後に手にした蝋燭を真紅に塗って置いて行った。
この真紅の蝋燭を買い取りに来た者に売って以来、度々海が酷く荒れるようになり、海辺の街は寂れ滅んでしまった。
時代に見える人魚のスタイル
この作品は大正10年(1921)に小川未明によって書かれた比較的新しい昔話です。
そのため、人魚の姿が西洋タイプのいわゆる『人魚姫』スタイルになっています。
日本古来の人魚、八百比丘尼などで不老長寿の薬として食べられている人魚は、美しいどろこから完全に妖怪・化物です。
雁子浜の人魚伝説
この作品は新潟県上越市大潟区の雁子浜(がんこはま)に伝わる人魚伝説に着想を得たと言われています。
人魚伝説の元は、袴形村にまだ住吉神社があった頃に起きたる水難事故でした。
***
袴形の神社は小高い丘の上にあり、佐渡島を臨む鳥居の南側には常夜灯が一列に並び悪天候でも献灯が絶えなかった。
この灯りを頼りに佐渡島から渡って来る不思議な女がいた。
雁子浜の若者は女と恋仲になり、夜毎抜け出すようになる。
しかし若者には許嫁がおり、母親が若者を咎めたため彼は一晩だけ献灯を休んでしまう。
そのため女は遭難して溺死、若者も女の後を追って身投げした。
哀れに思った村人は二人を弔い、常夜灯の側に塚を作り小さな地蔵を安置した。
いつしか住吉神社は寂れ、明治41年に崩山に移された。
***
現在神社の跡は整地され、関井と灯篭を一基残すのみとなっています。
引用元:http://o-kankou.com/spot/
しかしこの水難事故、実話であれば許嫁の女性がとても気の毒です。
許嫁の男は自分には見向きもせずに夜毎通って来る素性の知れぬ女に夢中。
けれども自分は許嫁のある身としては他に相手を探すわけにもいかず、ただ男を待つだけ。
挙句、男は女の後を追って自殺し婚約は自動消滅。
二人を憐れんだ村人が祀ったりするものだから、いつまでもその事件は風化せず……。
彼女の心中や村の中での立場を思うと、その後の人生が心配になってしまいます。
隣の芝は青い、上の陸は明るい
自分の住んでいる場所よりも、ずっと素敵な場所がこの世にはある。
暗い海から頭だけを出して眺めた人の街は、母人魚の目にさぞ煌びやかで美しく楽しげに映ったことでしょう。
ひと昔前の、都会に憧れる田舎の女の子のような気持だったのかもしれません。
しかし、一見楽しそうに見える場所も実際に住めば様々な問題を抱えているものです。
住めば都とは言いますが、都が必ずしも極楽とは誰も言っていません。
『こんな暗く寂しい所で生まれるのは可哀想』だからと、我が子を『何となく良さげ』な地上に生み捨て、自分だけ海に帰ってしまうのは親として如何なものか。
たまたま優しい老夫婦に拾われたから良かったものの、いきなり怪しげな人間に拾われて見世物にされたり、最悪不老長寿の人魚肉狙いで食われかねないというのに。
現地のリサーチもせずに、小さな子供をいきなりホームステイさせるよりも危険です。
何に憧れるのも個人の自由ですが、巻き込まれる子供は大迷惑としかいえません。
この物語の感想・考察を調べると、老夫婦に見られる人間のエゴ・業の深さを鋭く抉った作品だという意見が多々見られますが、半分は安易な憧れと独り善がりな自己犠牲精神で赤子を産み捨てて行った母人魚の招いた悲劇ではないでしょうか。
香具師と人身売買
香具師(やし)とは露天商を大雑把に指す言葉であり、その種類は大まかにわけて13種類あると言われています。
その中の一つに『タカモノ』という括りで見世物がありました。
見世物はカラクリ・撃剣・パノラマ・迷路・初期の映画、果ては男女の性交を覗穴から覗くものまで、まさに何でもありなカオスな世界です。
そしてこの見世物の中には、珍獣(生きているモノから剥製・ホルマリン漬けまであり)や奇形の人間も含まれていました。
人魚娘を買い取りに来た香具師は、この『タカモノ』を扱う人物であると思われます。
日本には貧しい村から売られてきた娘が遊女として年季奉公する遊郭が、戦後に売春防止法が施行されるまで存在していました。
よって、大正時代に書かれた『赤い蝋燭と人魚』に人身売買が描かれているのは、当時としては残酷なリアリズムだったのです。
第伍話 浦島太郎
引用元:http://www.ehagaki.org/
恩を仇で返された男の物語?
しかしその起源は……
あらすじ@お子様向け
苛められていた亀を助けてやった浦島の太郎。
助けた亀に連れられて、乙姫様のいる竜宮城に。
タイやヒラメの舞い踊り、美味な馳走に極上の酒。
素晴らしいもてなしの数々を堪能し、お土産までもらって地上に帰る太郎。
けれども、実家付近は様変わりし知り合いが一人もいない。
それもそのはず、何とそこは数年後の世界だった。
絶望した太郎は『開けてはいけない』玉手箱を開けてみる。
すると中から煙が立ち上り、太郎は白髪の爺さんに。
***
せっかく亀を助けて良いコトをしたのに、最終的には数百年後の世界でボッチになるわ、渡された土産の箱を開けたら爺さんになるわと散々な目に会う主人公。
陸と海で時間の流れが違うなら先に言え!
開けたら駄目なもんを土産に寄越すな!
しかも老化するとか嫌がらせか!?
理不尽過ぎてそう叫びたくなります。
こんなものを読み聞かされたら、『苛められている亀を見ても、心を鬼にして全力でスルーしなきゃ』と思い定めてしまうでしょう。
一体この昔話から何を学べと言うのか……
この答えは、浦島太郎の原点である『御伽草紙』の中にありました。
御伽草紙版
漁師の浦島太郎(浦島はファミリーネーム、太郎が名前)は、ある日釣りをしていて亀を釣り上げた。
亀は万年生きるのに、ここで殺しては可哀想だと太郎は『恩を忘れるな』と言い含め、亀を逃がしてやる。
***
苛められている亀を助けません。
普通に釣り上げてしまっています。
食べない生き物をリリースする優しさはありますが、結構恩着せがましい物言いです。
***
亀を助けて数日、再び小舟で釣りに出た太郎は同じく小舟で海を漂う女を見つける。
不審に思い『何をしている』と問えば、女は『乗っていた船が転覆し、何とか助かったものの一人ぼっちで…』と泣き出した。
気の毒に思った太郎は女を故郷まで送ってやる。
その間10日。
ようやくたどり着いた女の家は豪華絢爛な御屋敷だった。
ここで女は親切な太郎にプロポーズ、太郎はそれを迷わず受ける。
***
太郎は亀に乗って竜宮城に行きません。
謎の美女と小舟で10日間の旅をし、当時としては珍しい女性からのプロポーズを受け即断即決の逆玉婚。
つまり太郎と女は夫婦。
***
素晴らしい屋敷の名前は竜宮城。
太郎は夢のように楽しい日々を竜宮城で三年ほど過ごす。
太郎は遅まきながら残して来た両親のことが心配になり『一ヵ月だけ実家に帰りたい』と女に頼む。
女は『今別れてしまっては、次はいつ会えるかもわからない』と泣き、自分がかつて太郎に助けられた亀であるとカミングアウト。
そして女は例の『開けてはいけない』玉手箱を太郎に渡す。
***
竜宮城が海底ではなく陸にあります。
必然的にタイやヒラメは舞い踊りません。
三年間も年老いた両親を放置し、自分だけ豪遊三昧していた太郎。
亀には優しいけれど、親には優しくありません。
亀=女=乙姫です。
***
玉手箱を持って帰った故郷はすっかり荒野。
実家どころか一軒の小屋以外何もない。
小屋の住人に『浦島という家はあるか?』と尋ねれば、『その家があったのは七百年前だ』という答えが返って来た。
絶望した太郎は松の木の下に佇み、玉手箱のことを思い出す。
『開けるな』と言われたが、今更何が起きようがこれ以上の絶望などあるものか。
すると箱の中から煙が出て来て、若者だった太郎の姿は鶴へと変わった。
太郎は羽ばたきながら思う。
おろらく竜宮城にいる間は元の世界とは時の流れが違ったのだ。
普通の人間はアッというまに死んでしまうのだろう。
だから女(竜宮城の亀)は俺が老いぬように俺の『歳』を箱の中に封じてくれたに違いない。
そしてもし箱を開けてしまっても、俺が千年生きられるよう鶴に変えてくれたのだ。
鶴になった太郎は蓬莱山に飛んでいった。
後に太郎は丹後の国で浦島明神として崇められる。
亀も同じ場所に神としれ祀られ、二人は夫婦神となった。
***
太郎が戻ったのは七百年後の故郷。
玉手箱を開けたのは何となくではなく、『これ以上悪くなりようがねぇよ…』という深い絶望から。
老人ではなく鶴に変身。
玉手箱の意味が明確。
開けてしまった場合のフォローも完璧。
神としてでも夫婦となって、太郎と亀は添い遂げる(ある意味異類婚の成就)
玉手箱は嫌がらせ土産ではなく、亀のキメ細かな愛の形でした。
現代版浦島太郎よりも、登場人物の行動原理が明確で読後の理不尽さがなく、素直にめでたしめでたしと言えます。
ただし、太郎の両親はやはり気の毒です。
働き盛りの息子が海で行方不明になったきり帰ってこない、生きているのか死んでしまったのかもわからない。
帰らぬ息子を今日帰るか明日帰るかと毎日待ち続けながら、岸にドザエモンでも上がれば息子じゃないかと飛んで行って確かめる…
そんな生活をしながら、やがて年老いて『最後に一目息子に会いたい』と願いながら死んでいったであろう老夫婦は、この物語最大の被害者でしょう。
続浦島子伝
平安時代中期に記された、大人の浦島太郎とでも言うべき艶話。
そもそも『御伽』とは貴人の退屈を紛らわせるために話相手を務めることを意味し、聞き手は基本的に大人を想定していました。
ここでは竜宮城に迎えられた太郎が乙姫と性行為をするさまが、暈されることなく赤裸々に描かれています。
『魚比目(ぎょひもく)の興』、『鴛同心(えんどうしん)の遊』といった体位まで書かれているので、現代で言う官能小説的な趣すらあります。
ちなみに前者は対面側臥位、後者が男子騎乗位なので期待したほどマニアックなことは致していません。
それにしても、魚比目にて楽しむ様を『鯛や鮃の舞い踊り』と子供向けに置き換えるとは、なかなかに洒落が効いています。
『いい大人が鯛や鮃の舞い踊りなんか見て楽しいの?もしかして水族館でイワシの群れとか一時間見てられる人?それともチビッ子に混じって後楽園で俺と握手しちゃうタイプの大人?』といった素朴な疑問が一挙解決です。
美女たちとの交わりが楽し過ぎて時が経つのも忘れ励んだ結果、精根尽き果てゲッソリフラフラの老人状態になるのもとても良く分かります。
日本書紀版
船で漁に出て亀を釣り上げた所、亀が美しい女に変身。
太郎はその姿に感じるものがあり、彼女を妻とした。
***
このようなアッサリとした記述ではありますが、これはつまり『釣り上げた亀が美しい女になると堪らなくなり、その場(船の上)で行為に及んだ』ことを意味しています。
元が亀でもとりあえず美人ならば気にしない、己の本能と直感に忠実なワイルド太郎ですね。
第六話 カチカチ山
引用元:http://morimiya.net/
婆汁を作る狸に狸の背中に放火する兎。
可愛い動物のファンキーな行動が光る昔話。
あらすじ
畑を生業とする老夫婦のもとに、毎日やって来ては悪さをする狸。
あまりの悪質さに、爺さんは罠を仕掛け狸を捕らえる。
爺さんは狸を婆さんに渡し、狸汁にするよう言いつけ畑に向かった。
狸は改心するからと婆さんの情に訴え縄を解かせるやいなや、婆さんを杵で撲殺してすり替わる。
婆汁をこさえた狸は、帰宅した爺さんに狸汁と偽り婆汁を食わす。
知らずに己の妻を食った爺さんを嘲笑いながら、狸は山に逃げ帰った。
いつも野菜をくれる親切な老夫婦を襲った不幸を聞いた兎は、爺さんに頼まれ悪辣な狸への復讐を請け負う。
まず兎は金儲けを餌に狸を柴刈に誘い、狸が背負った柴に放火。
後日、兎は火傷の特効薬と偽り狸に唐辛子味噌を渡す。
狸の火傷が癒えると、兎は狸を漁に誘い出し狸だけを泥船に乗せ自分は木の船に乗る。
沈む泥船から助けを求める狸を、兎は艪で沈め復讐完遂。
***
簡単にあらすじをおさらいしただけで、妙にリアリティのある残虐シーンが沢山あります。
全員バイオレンス
狸の猟奇性が際立ちすぎて隠れがちですが、この物語の登場人物は基本的に全員バイオレンス。
・爺さん
畑を荒らされて頭に来たのはわかりますが、そこで『狸ぶっ殺す』ではなく『食ってやる』となるのが結構怖い人。
狸を食べたことのある現代日本人はあまりいないかと思われますが、文献によると狸の肉は大変獣臭がキツイ上に固いそうです。
香辛料や香味野菜をタップリ効かせ、味噌仕立てにしたものを一流の料理人が手掛けて何とか…というレベルであり、素人が手を出せばとんでもない代物になるだろうと、昭和15年に佐藤垢石は随筆の中で述べています。
つまり、爺さんは食欲からではなく復讐心から狸を食べようとしていたことが窺えます。
・婆さん
爺さんほど積極的でないにしろ、狸汁を楽しみにしていました。
さほど美味くもない、下手したらゲテモノだというのに。
あるいは、自分の手にかかれば臭い狸肉も御馳走に出来るという自信があったのかもしれません。
・狸
言うまでもなく、カチカチ山最恐の悪役。
畑を荒らしての盗み食いは生きるための必要悪ですが、わざわざ呪いのような歌を歌ってお爺さんを挑発したり、助けてくれた婆さんを躊躇なく杵で撲殺したり。
そして何より婆汁をこさえて爺さんに食わせ、最後には種を明かして嘲笑。
弱肉強食という問題ではなく、残忍な行為を愉しむ猟奇性が極めて高いのが特徴です。
・兎
義憤に駆られたにしても復讐の方法が苛烈にして陰惨。
一思いに殺らず、友達面のまま三度に分けて復讐・殺害。
***
どうでしょう?
老夫婦に狸と兎という牧歌的面子にあるまじきアナーキーさを全員が秘めていませんか?
強制カニバリズム
上でも触れましたが、狸の猟奇性が尋常ではありません。
自分を捕らえた爺さんの妻である婆さんを殺して逃走。
これならば善悪は別として行動としては理解できます。
腹が減っていたから殺して食った。
これもまた非情ではありますが、弱肉強食という獣の理に則った行いです。
しかし、殺して捌いて調理して、自分で食うだけでなくわざわざ爺さんにまで食わせた上での種明かし。
この行為には悪意以外の意味合いが何一つありません。
最近の童話では婆汁は残酷過ぎるとして割愛されているようですが、これがあるからこそ兎のオーバーキルが正当化される側面があります。
むしろ、ここまでやらかしたら凌遅刑をくらっても仕方のないレベルかと思われます。
兎の行為はオーバーキル?
兎もちょっとやり過ぎだ、殺すことないのでは?
こういった批判を受けて、最近では兎は最後に狸を助けてやり、狸も改心して和解するといったものもあります。
しかし、兎の行為はただいたずらに狸をいたぶっているわけではありません。
世界各地で古代から中世まで行われていた裁判の一形態である『盟神探湯』にちなんでいるのです。
『盟神探湯』とは、穢れのない者は火によって焼かれず、水に沈むこともないという考え方を指します。
つまり、もし狸が無実であれば火傷もしないし溺れもしないといった前提がありました。
この物語の中で、兎は裁判官と刑の執行官を兼ねているといえるでしょう。
辛子味噌の偽薬が陰険過ぎるという意見もありますが、狸自身が婆さんを殺した上に爺さんを騙してカニバリズムを強いているので因果応報とも言えます。
ちなみにカニバリズムに対する強い憎悪を想起させる物語は、日本の数ある説話や昔話の中では珍しいそうですが、それが逆に恐ろしくも思えます。
室町という時代
『かちかち山』が書かれたのは、室町時代だと言われています。
室町時代とは、日本が群雄割拠の戦国時代に突入する寸前の時期であり、ギラついた武将たちが手段を選ばずのし上がろうとしていた下剋上の時代です。
そうした時代背景を考えると、物語の中で起きた苛烈な出来事は当時の社会の縮図であったのかもしれません。
兎と爺さんを主従関係と見立てれば、主に仇為す者を徹底的に殲滅・排除することは忠義として称賛されます。
情をかけてくれた老婆を無情に殺す行為も、どのタイミングで裏切るかを互いに抜け目なく算段しながらの政略結婚が当たり前の時代ならば、そう可笑しくはありません。
爺さん・狸・兎の騙し合いも、当時の価値観で言えば騙す人間が悪いのではなく、騙される人間の頭が悪いだけ。
『かちかち山』の舞台であったとされるのは山梨県の河口湖。
山梨といえば甲斐の国、武田信玄の国です。
勇猛さと知略、そして冷酷さで恐れられた信玄の国の物語だと思えば、苛烈で当然という気がします。
第七話 舌切り雀
引用元:http://kihiminhamame.hatenablog.com/
欲張りはいけないよ、そんな道徳的な話だと思っていませんか?
ドロドロの三角関係をどうぞ。
あらすじ
あるところに優しい爺さんと欲張り婆さんの凸凹夫婦が住んでいた。
爺さんは怪我をした雀を助けてやり、雀は爺さんに良く懐いた。
そんなある日、爺さんの外出中に雀が婆さんの用意していた障子貼用の米糊を食べてしまった。
怒った婆さんは雀の舌を鋏で切って家から追い出してしまう。
爺さんは婆さんの仕打ちを詫びるために雀を探しに山の中に入り、雀のお宿を見つける。
雀は爺さんに糊を食べたことを謝り、爺さんを御馳走や踊りでもてなした。
爺さんの帰り際、雀が土産にと大きな葛籠(つづら)と小さな葛籠を差し出すと、爺さんは『自分は年寄だしこれで充分』と小さな葛籠を持ち帰る。
帰宅して葛籠を開けると、中には見たこともない金銀財宝が入っていた。
これを見た強欲婆さん、『大きい葛籠をもらってくる!』と張り切り勇んで雀のお宿に。
半ば強奪するように大きな葛籠をもらった婆さんは、家まで待ちきれず道の途中で葛籠を開ける。
すると出て来たのは魑魅魍魎。
逃げ帰った婆さんに爺さんは『欲張るものじゃない』と諭す。
***
優しい爺さんが良い思いをし、強欲婆さんは怖い思いをする。
『欲張りはいけないよ』という教訓が最後にキッチリ語られる。
とりあえず誰も死なない。
これまでご紹介してきた物語に比べると、かなり穏やかで整合性もある物語です。
しかし、元々のお話にはお子様向けに削られた過激な描写がありました。
『舌切り雀』の原作『腰折雀』
『舌切り雀』には原作があるとされています。
それが鎌倉時代初期に成立したと言われている『宇治拾遺物語』収録の『腰折雀』です。
では『腰折雀』のあらすじを簡単に追ってみましょう。
***
あるところに優しい婆さんがいた。
婆さんは腰の折れてしまった雀を見つけ、親切に面倒を見てやった。
元気になった雀は『助けてもらったお礼に』と種を置いて飛び去り、その種からはたくさんの瓢箪が実り中から米が出て来た。
以来婆さんは食うに困ることがなくなった。
それを見ていた隣の強欲婆さん、羨ましくて仕方がない。
都合良く怪我した雀が見つからないとて、自ら雀に石をぶつけ怪我をさせてまで看病して放つ。
しばらくすると雀がやってきて、種を置いていった。
歓び勇んで種を蒔く強欲婆さん。
けれども、瓢箪からはいつまで経っても米が出てこない。
待ちきれなくなった強欲婆さんが瓢箪を叩き割ると、中からは毒虫が湧き出て強欲婆さんを襲い殺してしまった。
***
夫婦ではなく、隣同士の親切婆さんと強欲婆さんが登場
雀は舌を切られない
葛籠ではなく種から実る瓢箪
強欲婆さんは容赦なく殺される
『舌切り雀』との相違点が思いの外多いのですが、親切な人間と強欲な人間がそれぞれに適した末路を迎えるという教訓は同一です。
雀の舌を鋏で切るという行為も残虐ですが、米瓢箪欲しさに雀に石を投げつけ自作自演の看病劇を演じる強欲婆さんには、より以上の計算高さというかサイコ臭を感じます。
そしてラストが『舌切り雀』に比べ明らかに苛烈でした。
問答無用で容赦なく殺される強欲婆さん、しかもその死に方が虫責め。
死に至るまで毒虫に刺されるのですから、その恐怖と苦痛は間違いなく拷問レベルでしょう。
サラリと書かれると何となく流してしまいますが、リアルに想像してみてください。
断末魔の叫びを上げのたうち転げ回る老婆。
その老いた身体が隠れるほど夥しい数の毒虫が隙間なく集り、老婆の耳には己の絶叫と無数の小さな口がミチミチと少しづつ、しかし貪欲に肉を食む音だけが聞こえる。
やがて全ての音が途絶えた跡には、なまじ人の形を留めるだけに無残な老婆の亡骸が転がった。
……グロテスクです。
引用元:https://www.nicovideo.jp/
爺さんの苦難・取り殺される婆さん
まさかのスカトロ…?
子供向けにマイルドになった『舌切り雀』では、爺さんはさほど苦労せずに雀のお宿に到着しています。
しかし、初期の頃は爺さんだいぶ苦労していました。
雀を探しに行った爺さんは様々な人に雀の居場所を尋ねて回りますが、情報と引き換えに牛馬の尿や血を飲むというマニアックなプレイを強要されます。
たかが道を教えるくらいで、何故そんな過酷な代償を要求するのか?
爺さんがそれをしたからといって、情報提供者は何の実益も受けないので意味が解りません。
この下りは明治以降には改定され、『うしあらいどん』と『うまあらいどん』に頼まれて爺さんは丁寧に牛馬を洗ってあげています。
実益ある健全な取引になりました。
婆さん死んだ
マイルド版では命からがら逃げ帰り、爺さんに優しく諭される強欲婆さんですが、大きな葛籠から溢れ出た魑魅魍魎に食い殺される話もあります。
それでも一口が大きい分、毒虫責めよりはマシな気もしますが。
三角関係のもつれから傷害・殺人
こちらは少々艶っぽい話。
雀とは若い娘のメタファー説です。
根拠としては、雀のお宿にて雀は人語を喋り赤い前掛けなどして爺さんに御馳走を振る舞っていたことが挙げられています。
こう考えると、婆さんが糊を食べたという些細なことをキッカケとして、明らかにやり過ぎな虐待に走るほどキレたのも納得です。
若い愛人をそう広くもないであろう自宅に囲い、正妻と同居させてかいがいしく可愛がる爺さん。
親切爺さんのイメージが180度変わりそうですが、優しい人=誰にでも無節操に優しい男…だったのかもしれません。
愛人のためなら山に入り牛馬の小便も飲める爺さん、善悪は別として根性あります。
ただし、この爺さんに『欲張りはいけないよ』と説教されたくはありません。
雀の行動が怖い
雀=若い娘だとすると、一気に雀の行動が恐ろしいものに見えてきます。
優しいお爺さんに対しても大きな葛籠と小さな葛籠を差し出していますが、これは一種の試し行動であるように思えます。
もしここでお爺さんが強欲婆さんと同じ選択をしていたら、爺さんは魑魅魍魎に食われてしまうのだから洒落になりません。
お爺さんが自分の理想の男でないなら死んで欲しい。
酷く幼く身勝手な考えですが、若さ故の潔癖さとも受け取れます。
そして強欲婆さんが大きな葛籠を選んでも、雀は引き止めずに帰します。
もし婆さんが葛籠を家まで持ち帰ってから開けていたら、何の罪もない(少なくとも雀には優しかった)爺さんまで巻き添えで死ぬ可能性が高いというのに。
強欲婆さんの我慢の効かない性格を見越していたのか、あるいは爺さんが自分のものにならないならば、婆さん諸共殺して全て清算するつもりだったのか。
こうしてみると、『舌切り雀』とは爺さんを巡る女の戦いの物語です。
ここでの教訓は、『女の嫉妬は怖いから遊びは慎重に』といったところでしょうか。
まとめ
マンガ日本昔話のイメージからほのぼのとした物語ばかりを思い浮かべがちですが、調べてみれば日本の昔話もグリム童話に負けず劣らず強烈です。
西洋の童話が最終的に人が人を罰するパターンが多いのに対し、日本の童話は自然・妖怪・神仏など、人の手に余る存在からの罰を与えられる傾向にあるように思えます。
人と自然・信仰との関わりが物語の根底に反映されているのは興味深いことです。