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オベリスクとは!?古代エジプト文明記念碑の歴史

かつて築かれた様々な古代文明の中でも、最も有名なものの1つとされるエジプト文明。

そして、そのエジプト文明の遺物として目にする機会が多いのがオベリスクでしょう。

エジプトで造られたオベリスクは、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ローマと世界の様々な都市に運ばれていき、現在でも姿が見られるものも数多くあります。

しかし、オベリスクとは一体どのような目的で造られたのでしょうか?オベリスクと古代エジプト文明について紹介していきます。

 

オベリスクとは?いつ誕生した?

オベリスクは一枚岩で造られた記念碑で、天に向かって垂直に建てられ側面は4つ、上に行くほど細くなるという特徴を持ちます。先端部は小さなピラミッドになっており、この部分は“ピラミディオン”と呼ばれています。

オベリスクの名付け親はギリシア人で、小さな串焼きという意味の“オベリスコ”という名称を彼らがこの石碑に与えたことが元となって、オベリスクの名が広まったとされます。

引用元:https://www.thegreatcoursesdaily.com/

オベリスクがいつ頃から建立されるようになったのかは、正確には分かっていません。現存しているものは紀元前2000年以降に建てられたものですが、それ以前に既にオベリスクは造られていたと考えられています。

古代エジプトではオベリスクは太陽神への捧げものとして造られており、太陽信仰の中心地となったのがヘリオポリスという地です。ヘリオポリスは現在のカイロ近郊、マタリヤ地区にあったと考えられており、遺跡も見つかっています。

エジプト国内が統一されて第一王朝(紀元前3100年~2890年)が開かれるまでは、オベリスクの頂点にあるピラミディオンに似た形の“ベン”または“ベンベン”と呼ばれる石が太陽神に捧げられていました。ヘリオポリスではこれらの石を、太古の神アトゥムとラーの力が宿った物神として信仰していたと言います。

そこから時代が下り、第五王朝や第六王朝の時代(紀元前2345年~2181年)の王たちも、それまでの王たちと同じようにピラミッドを建立し、埋葬室の壁にピラミッド・テキストを刻みました。ピラミッド・テキストとは、死者の幸福を願い宗教的な意味を持つ碑文のことです。

そしてピラミッド・テキストの中に「ベンベン石のごとく高くそびえる」など、オベリスクを指していると思われる文章が見られるようになります。このことから、第五、第六王朝の時代には巨大なベンベン石=オベリスクが存在していたのではないか?と考察されているのです。

 

オベリスクはどうやって建てられた?

オベリスクは多くの場合、花崗岩で作られています。古代エジプトでは花崗岩のことを“マット”と呼んでおり、エジプト国内で花崗岩が採れるのはアスワン付近だけでした。

引用元:http://e-wiki.org/

アスワンには各所に石切場が設けられており、“未完成のオベリスク”と呼ばれるオベリスクが残っています。そしてこれらのオベリスクは、未完成であるからこそ花崗岩がどのようにして切り出されたのか、作業工程はどのようなものだったのか、などを知る重要な手掛かりとされてきました。

岩に亀裂が生じたことで完成できなかった、いわば失敗作のオベリスクを研究することで、完璧なオベリスクを造るためにどのような技術が使われていたのかが分かるというのです。

未完成のオベリスクは、下になっている面以外の三面は既に切り離されています。これがもし切り出されていたとすると、基底部の一辺が4.2m、高さが41.75m、総重量1185トンにも上るオベリスクになったと考えられています。

このような大きなものをどうやって運び出していたのかというのは非常に気になる点ですが、綺麗なオベリスクを完成させるためには、石切り場のどこから石材を切り出すのかという決定も重要でした。

まずオベリスクを制作する際には、石の質を判断して傷が無いことを確かめるための、試作用の立坑が掘られました。この巨大な未完成のオベリスクには北側と南側に立坑があり、そのいくつかはオベリスクを切り離すためにあける、トレンチとして利用した形跡もあります。

オベリスクを切り出す場所が決まると、まずはその表面の凹凸をなくすことから作業は始まります。その方法は平らにする面の上に高温に熱したレンガを置き、岩の表面が熱くなったところで冷水をかけるというもので、結果的に岩の表面は脆く削りやすくなり、ある程度平らにすることができるのです。

続いて側面の切り出し作業に入るのですが、これは全工程の中でも最も緻密さが要求されるものと考えられています。この作業をどう行っていたのかを知る上での鍵となるものが、未完成のオベリスクの周辺から見つかっています。

引用元:https://www.thevintagenews.com/

未完成のオベリスクの周辺からは直径15cmから30cm程度のドールライト(輝緑石)で作られた、重さ5.5kg程度の石の球が発見されており、これは数えきれないほどの数出土しています。

未完成のオベリスクには、驚くべきことにクサビやノミを使った形跡がありません。上の画像のように、側面には浅くカーブを描いた溝が縦にいくつか並んでいるだけで、全ての角は丸みを帯びています。

この奇妙な跡の正体が、オベリスク周辺で見つかったドールライトの球だと考えられており、当時は石を切るのではなく、硬い石の球をぶつけて、切断したい箇所や穴を開けたい部分の岩を砕いたと考察されているのです。

作業は具体的には、オベリスクを切り出すラインに沿って数千人の作業員が配置され、3人1組に分けられます。そして3人のうちの2人が立って石の球のついた棒を振り下ろす役、残りの1人がしゃがんでつく位置を確認、指示を出していたと考えられています。

この作業は、歌に合わせて行われていたとされ、歌には打つリズムを同じにする効果と、重労働に就く作業員たちの気を紛らわす役割があったそうです。

ハトシェブスト女王がカルナックに建てたオベリスクの台座には、石の切り出しから完成するまでは7ヶ月間かかったと述べた碑文が刻まれています。

考古学者の間では、この規模のオベリスクであれば制作に7ヶ月の時間を要しても不思議ではないと考えられており、未完成のオベリスクも相当な時間をかけていたものと推測されています。

未完成のオベリスクは切り出しの作業中に様々な問題が生じたことが分かっており、台座の近くにある亀裂は早期に見つかったらしく、計画当初の高さよりも約8.4mも全体を低くする変更が行われました。

その後さらに別の場所にも亀裂が発見され、その度にサイズを小さく変更して作業を続けていたものの、遂にオベリスクの中心部分に亀裂が入ってしまい、作業が打ち切りになってしまったと予想されています。

亀裂が生じていなければ、オベリスクは下側の面を切り離す作業に入っていたものと考えられます。下側の切断する部分に幾つもの坑道をあけて、その穴の中に木を埋め込み、両側の側面から同時に穴あけ作業を行うことで、下の面を切り離していくのです。

この工法が実際に行われたことを裏付けるのが、同じ石切り場にある小型のオベリスクを切り出したと思われる現場で、クサビを打ち込むための穴が確認されています。

オベリスクの切り出し作業が終わると、次にそれをナイル河に続く道の上に引き上げる必要があります。これについては頑丈な木で作られた30本以上の梃子を用意してオベリスクの下側に差し込み、できた隙間に詰め物をしたうえで梃子に取り付けたロープを数千人の作業員で一斉に引いて、巨大なオベリスクを引き上げたと考えられています。

そして引き上げたオベリスクをナイル河に運ぶ作業にも少なくとも6000人の作業員が動員され、その人数で合計40本、直径が18.4㎝もある太い縄を引いたとされます。

引用元:http://egypt.newton-geo.jp/

オベリスクを船に乗せた後、最後の難関となるのが神殿への建立作業です。まずはオベリスクを陸上げした地点から建立予定地まで、土や砂を使って傾斜路をつくり、その道の上を通ってオベリスクを運びます。

そしていよいよ建立となるのですが、オベリスクの建立方法については考古学者や建築家、技術者の中で見解が分かれており、現在でも様々な主張がされているのです。

その中で最も有力視されているのがフランスの考古学者のアンリ・シュバリエが発表した説で、彼の説によると、まずオベリスクの建立予定地に床に穴を掘った1つの部屋を作ったのではないかと考えられています。

オベリスクの建立予定地には台座が底になるように四角い立坑が掘られており、立坑はジョウゴのように一番上が最も広く、下に行くほど狭くなるように出来ていたとされます。

そして砂を満たした立坑に底部を先頭にしたオベリスクを運び込み、作っておいた部屋の底にあけた穴から砂を抜いていくことで、1つの側面全体を砂に密着させた状態のままオベリスクを滑らせて底部を台座に下ろし、最後にロープで垂直に引き上げて設置したと考えられているのです。

 

オベリスクの歴史と古代エジプト文明

古代エジプトの歴史の中で、非常に重要とされているのがヘリオポリスとメンフィスという2つの都市です。世界広しと言えども、これほど輝かしい過去を持った都市は少なく、メンフィスは最初のファラオが首都と定めたと言われる紀元前3100年から、約800年に渡ってエジプトの行政の中心地でした。

そしてヘリオポリスはプトレマイオス朝時代(紀元前304年~31年)の末頃まで、エジプトの宗教と科学の中心地として栄えたました。ここでは、古代エジプト文明の中心地とそこに建立されたオベリスクの歴史について紹介していきます。

 

テティのオベリスク

ヘリオポリスで存在したことが確認されている最古のオベリスクは、第六王朝のペピ二世の統治下で、アスワン地区の総督であったサブニガが彫らせた碑文に残されたものです。

碑文のなかでサブニは、ヌビア北部に南下してオベリスクをヘリオポリスへ運ぶために、二隻の大きな船を建造したと記しています。そこにはサンダル片方すら無駄にすることをせず、この困難な仕事を成し遂げて労働者も皆無事に連れ帰ったという自慢も記載されていました。

このオベリスクがどこに建てられたのかは分かっていませんが、サブニの碑文は、第六王朝時代にヘリオポリスにオベリスクがあったという重要な証拠となりました。

サブニが仕えていた王ペピ二世の父であるペピ一世のピラミッドには、その埋葬室の壁面に“テケヌイ・エン・ラー”という句が刻まれています。サブニの碑文が見つかる以前であれば、この句は「ラーの二本の柱」と訳されていましたが、現在では「ラーの二本のオベリスク」と訳されるようになりました。

引用元:http://egypt.newton-geo.jp/

1972年にサブニの碑文が発見された後、エジプト考古庁は現存するセヌウセルト一世のオベリスク周囲を調査した時、石英石の大きな塊を2個発見しました。そこにはペピ一世の父親のテティ(紀元前2345年~2333年)の名が彫られていました。この石片のうちの1つはオベリスクの上の部分であることが判明しており、高さ3mほどの小さなオベリスクの破片と考えられています。

現在の時点では、このテティのオベリスクが王が建立したことが分かる最古のオベリスクとされており、これ以前ではオベリスクに似た建造物の遺跡しか見つかっていません。

 

セヌウセルト一世のオベリスク

第十二王朝のセヌウセルト一世は45年に渡って統治し、エジプト全土にその業績を示す記念建造物を残しました。この王は太陽神に捧げるためにヘリオポリスに新しい神殿を建設したとされ、現在神殿自体は破壊されているものの、神殿の近くに建立された1本のオベリスクが現存しています。

ヘリオポリスにあるセヌウセルト一世のオベリスクは、現存するものの中では最も古いオベリスクです。かつては神殿の両脇に対で造られていたことが分かっていますが、残っているものは1本だけです。このオベリスクについては王朝時代以降の様々な人が記録を残しており、その中で最古のものと考えられているのが、聖エフェエムがイザヤの書の中のある章について述べた評論です。

その中ではヘリオポリスは悪魔崇拝と偶像崇拝が盛んにおこなわれた土地として紹介されており、オベリスクについても「重さ450kgを超えると思われる、異教の神秘性を感じさせる独特の雰囲気」を持つ建造物との記述があります。またアラブの歴史家であったヤークートも、当時の人々はオベリスクのことを“ファラオのからげ針”と呼んでいたという記録を残しています。

 

テーベの町のオベリスク

古典時代に活躍した文筆家であるマルケリヌスは、エジプトとオベリスクに大変な興味を持っていたと言います。彼は4本のオベリスクがローマに運ばれていく時に、ちょうどその場に居合わせ、後にテーベの町に訪問した後にオベリスクの研究をしたうえで「王の権力の接町を意味するもの。王の神々の栄光を称えたもの。」と、オベリスクについて記しています。

テーベの町は現在のルクソールとその周辺の町、ナイル対岸の地域にあたります。古代エジプト時代、ナイル河の東岸は生者の町でした。そしてその中心部には約150エーカーもある敷地に、いくつもの神殿で構成されたカルナック大神殿が立っていたと言います。

カルナックは2000年以上にわたってエジプトの国家的な聖地であり、歴代の王たちは神々に捧げるために神殿や聖堂、彫像やオベリスクなどのたくさんの記念建造物をつくってはカルナック神殿に奉納しました。エジプトに勝利をもたらしてくれるのは神であると、古代の王たちは信じていたのです。

この古代の都市を南に行った郊外にはルクソール神殿が建っており、かつてはこの神殿と両側にスフィンクスの並ぶ参道でカルナック神殿と結ばれていました。そして参道に沿って王宮や別邸、高官たちの邸宅が軒を連ねていたと言います。

一方でナイルの西岸は死者の町でした。砂漠台地のへりに沿って約2マイルに渡って王家の葬祭神殿が建てられており、谷間の岩壁には何百もの墓が掘られていました。

死者の町と言っても墓地しかなかったわけではなく、この土地には墓に収める彫像を彫るアトリエがあり、そこで働く職人の住居も近くに造られていました。このようにテーベがエジプト文明の中で重要な意味合いを持つようになったのは、第十八王朝の頃であり、侵略者であった異民族ヒクソスに戦いを挑んで勝利をしたのが、テーベ出身であったアハメス王(紀元前1567年~1546年)であったことがきっかけです。

この時代のエジプトはとても豊かであり、ファラオは世界の支配者でした。テーベはたちまちファラオの戦利品で飾られ、古代エジプトの中心地となっていったのです。

貴金属のインゴッドがきらめく町と謳われたテーベにあるカルナック神殿に、初めてオベリスクを奉納したのは第十八王朝の三代目の王であったトトメス一世でした。戦争に勝つたびにトトメス一世はテーベの守護神に多くの建造物を寄進し、その1つがオベリスクであったとされます。

そしてトトメス一世の死後はトトメス二世と妻のハトシェプスト女王による統治が行われ、トトメス二世の死後には庶子のトトメス三世が跡を継いだのですが、実権はハトシェプスト女王が握っていました。

引用元:http://i-cias.com/

ハトシェプスト女王はカルナックにアメン・ラーを祀る巨大な聖堂を建て、その近くに2本のオベリスクを建立するなど、自らの権利の象徴として様々な建造物を建てたのですが、これらのほとんどが、彼女の死後に表舞台に登場したトトメス三世によって取り壊されたと言います。上の画像は、実際に倒壊した状態で発見されたハトシェプスト女王のオベリスクです。

 

新たな都とオベリスク

新王国時代第十九王朝を開いた王、ラムセス一世(紀元前1320年~1318年)は、デルタ地帯東部の出身でした。ラムセス一世は王の座に就いた時には既に老齢であったため、在位期間は1年数ヶ月と非常に短く、すぐに息子のセティ一世が跡を継ぐこととなりました。

彼は出身地近くの町、アヴァリスの守護神であったセトを崇拝しており、それまで地方の神の1つに過ぎなかったセト神のために、礼拝堂や王宮を建立したと言います。

セティ一世の統治により、繁栄するようになったアヴァリスでしたが、その息子のラムセス二世の時代になると、首都として栄えるようになり、その名も「ペル・ラムセス・メル・アメン」つまり「アメンに愛されしラムセスの領土」と改められました。

ラムセス二世はアヴァリスをテーベに負けないような大都市にする計画を立て、セト以外にも様々な地方神を祀る神殿を建立したと言います。

約二世紀にわたって首都として栄華を誇ったアヴァリスことペル・ラムセスですが、現在では正確な町の位置さえ分からなくなっています。タニスの遺跡にラムセス二世のオベリスクが横たわっていたことから、長らくこの地がペル・ラムセスだと考えられていましたが、後の研究で石切り場から離れた場所にあったタニスでは、様々な場所から記念建造物を集めて新しく建設する神殿として再利用していたことが分かり、ペル・ラムセスとは無関係であることが分かったのです。

タニスの遺跡からはオベリスクの破片が23片発見されており、そのうちの22個にラムセス二世の名前が記されていたと言います。この全てがラムセス二世が建立したものとは限りませんが、ペル・ラムセスや他の都市から持ってきたものであることは確かです。

ラムセス二世は即位中に14回に及ぶ即位記念祭を執り行っており、それを祝してその都度オベリスクが建てられたと考えられています。そして、そのうちの何本かが後にタニスに運ばれて、神殿を作る材料として使われたと考察されているのです。

さて、世界有数の都市には必ずと言っていいほど、エジプトのファラオ時代の記念建造物が飾られている広場や公園があるのですが、何故かエジプトの首都であるカイロにはそれが1つもありませんでした。この事実が指摘されたのは1958年のことで、メンフィスに残っていたラムセス二世の巨像と、タニスにあったラムセス二世のオベリスクをカイロに運んだと言います。

ラムセス二世は数多くのオベリスクを建立しましたが、テーベに建てたものが最大であったと考えられています。ルクソール神殿の塔門の正面に一対のオベリスクを建立し、現在はそのうちの1本だけが残っています。もう片方のオベリスクはパリに運ばれており、現在はコンコルド広場中央に立っているのです。

ラムセス三世以降の統治では、ラムセス王朝では8人もの王が誕生しました。しかし国内の統治が崩れて弱体化し、外国人の統治のもとに置かれた時代もあったために、ラムセス三世以降のオベリスクは3本しかみつかっておらず、そのどれもが小さくて質素なものです。

そしてこの後の王朝はいずれも短命であり、紀元前332年にはアレキサンダー大王の統治下におかれ、その後にプトレマイオス王朝の時代が幕を開けます。新しい首都となったアレキサンドリアは、以降ギリシアやローマ時代を通してギリシア文化の中心地として繁栄しました。

プトレマイオス王朝の王たちはエジプト古来の文化や宗教をそのまま取り入れたため、デンデラやエドフなどに小規模な神殿とともに小型のオベリスクを複数建立されました。しかし、これらは被征服民のエジプト人を懐柔するために建立されたものであり、かつてのような栄華の証という意味合いの物ではありませんでした。

こうしてオベリスクがそびえたっていた聖なる土地も衰退の一途をたどり、ヘリオポリスには現在セヌウセルト一世のオベリスクが1本建っているだけであり、その周囲はサッカー場に姿を変えています。

 

まとめ

オベリスクは太陽神ラーへ捧げる記念碑として奉納され、中央集権が弱体化して大型のピラミッドの建立が難しくなった頃に、ピラミッドの代わりに登場したものと考えられています。

過酷な自然環境から、独特の信仰が生まれるようになったとされる古代エジプト。その象徴の1つであるオベリスクは後にエジプトを訪れた西欧の人々の興味を惹きつけて、ローマやパリ、ニューヨークと言った西欧の大都市に流出していきました。

エジプトとあまり交流のある日本では見ることができないオベリスクですが、欧米では古代エジプトの栄枯盛衰を示す建造物として、非常に高い注目を集めているのです。

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