46都道府県中、最大の敷地面積を誇る北海道。人口密度も東京都と比べると100分の1近く、それだけに森林や工業地帯など居住区以外の土地面積も全国最大です。
そのように広い土地があるだけに場所によっては土地の買い手がつかず、建て替えることもなく放棄されている廃墟が数多くあります。土地の産業や歴史を窺わせるものも多い北海道の廃墟を選紹介していきます。
北海道の廃墟・病院/学校編
①雄別炭坑病院
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阿寒郡阿寒町雄別にある雄別炭坑病院は、昭和40年代初頭に建て直された全面ガラス張りの回廊が特徴的な建造物です。しかし完成した5年後、昭和45年には雄別炭坑が閉山され、それに伴って廃病院となりました。以降取り壊されずに放置されているため、50年近く廃墟状態が続いています。
雄別炭坑は事故が多いことで知られる炭坑でした。昭和8年には大祥内坑でガス爆発が起こって5名が死亡、そして昭和30年には死者60名負傷者17名を出すガス爆発が発生しています。そして第二次世界大戦時に雄別鉄道の阿寒駅が空襲に見舞われた際にも、当時の雄別炭坑病院は木造の診療所でありながら、重症の患者を多数受け入れました。
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もともと深刻な患者を受け入れることが多かった病院でしたが、昭和41年に病室から火災が発生したことでモダンなコンクリート造へと建て替えられたと言います。
この頃の雄別炭坑の出炭量は72万トンを超えており、三菱財閥系の炭坑の中でも大きな利益を上げていました。そのために立派な病院も建てられたのですが、結局は石油、ガス、電気へのエネルギー源の変化による石炭の需要の低下と、上述のガス爆発事故が原因となって閉山。
最新設備を投入した病院もそのまま閉鎖されたのですが、昭和30年に起きたガス爆発の際も設備が充実していたことから、雄別炭坑病院内では死者が1人も出なかったそうです。
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残っている浴室には肢体不自由者用の介護浴槽も設置されており、炭坑内で事故に遭う人が多かったことを窺わせます。
修羅場の多い病院であったためか、現在では雄別炭坑病院は北海道トップクラスの心霊スポットとしても知られています。しかし、病院の近辺にはヒグマが多く出没することもあり、肝試しなど面白半分に近づくことは避けた方が良いでしょう。
②万字小学校(解体済み)
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万字小学校は、万字炭坑が栄えていた時期には賑わいを見せていた岩見沢市栗沢町にあった小学校です。万字炭坑は明治38年11月に北海道炭鉱汽船株式会社が6番目に開いた炭坑で、鉱区坪数は1000万坪、出炭量は最大で3000万トンを誇っていたと言います。
そのためこの地に移り住む家族も多く、山間の町は短期間に発展を見せました。しかし資源が枯渇したことによって昭和51年には廃坑となり、近隣の人々も他の職を求めて引っ越していきました。
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炭坑が開坑した翌年である明治39年9月に、万字小学校は設立されました。炭坑と学校に使用されている「万字」という名称は、鉱区の初代経営者の家紋が「卍」の模様であったことから付けられたそうです。
しっかりとしたコンクリート造の2階建てで、廃校になった後も体育館は町の体育センターとして使われ続けていたと言います。万字小学校の閉校は平成2年3月で、90年に渡って6100名以上の卒業生を見送ってきました。2010年には校舎と体育館が解体されたため、現在では記念碑が残るだけの更地となっています。
③沼東小学校
沼東小学校は美唄市東美唄町にあり、昭和中期の建築家である坂本鹿名夫氏が手掛けた建築物としても知られています。もともとは明治29年にできた盤沢簡易教育所が昭和22年に小学校になり、昭和33年に現在のコンクリート造の校舎が完成しました。
この土地もまた、炭坑に支えられていた歴史があり、近隣には三菱美唄炭坑が存在しました。沼東小学校の新校舎が完成した頃には美唄市の人口もピークを迎えており、小学校の生徒は1500名を超えていたそうです。
設計を担当した坂本鹿名夫氏は昭和30年代に全国各地で円形の校舎を手掛けた建築家で、北海道内だけでも10の円形校舎を建設しました。
円形校舎は構造が頑強になる、壁面や廊下の面積を縮小できるために建材費用もカットできるというメリットがある反面、増改築が困難である、有事の際に生徒が螺旋階段に殺到してしまい安全が確保できないといったデメリットがあるとされます。そのため、1960年代の半ばを過ぎると新たに円形校舎が建設されることは無くなりました。
沼東小学校の校舎は2棟あり「メガネ型校舎」と呼ばれていたのですが、そのうちの1棟は既に解体されており、現存するのは1棟のみです。
周辺も原生林と化してしまっているため、雨や雪が降ると校舎の1階は水没してしまい、冬場には教室の床に氷が張ってスケートリンクのような姿を見せるそうです。
④とうやこようちえん
引用元:https://mapio.net/
とうやこようちえんは虻田郡洞爺湖町に存在した幼稚園で、平成12年3月31日に有珠山南西側の山麓「西山」が噴火した際に被災して以降、噴火災害遺構として保存されています。
有珠山は日本でも最も有名な活火山の1つで、寛文3年から現在に至るまで合計で8回、過去100年の間に4回も噴火しています。この山は洞爺湖近辺の温泉産業を繁栄させるという恩恵をくれた反面、地域の人々を恐れさせてきたのです。
平成12年の3月27日から有珠山周辺では地殻変動が始まって断続的に自信が発生していました。地面が80mも隆起する場所もあったために、地震学者たちは23年前の有珠山と状況が酷似している、噴火は免れないと判断。3月29日になると気象庁が緊急噴火警報を出し、避難命令を受けた近隣住民、およそ1万人は町の外に避難しました。
その後31日の午前1時過ぎに有珠山の西側の山麓でマグマが洞爺湖周辺の地下水に接触して、水蒸気爆発が発生。町の北西部に火山灰を降らせたのです。
この噴火によって国道230号線は地盤が盛り上がって通行不能となり、近隣にあった製菓工場も建物ごと歪められてしまいました。そして、とうやこようちえんは有珠山の麓から徒歩圏内にあったため、大きなものでは直径1mにも及ぶ噴石が屋根を貫き、地盤の歪みで園舎もひしゃげてしまいました。
幸い避難命令を受けて園舎や周辺には人が皆無であったために被害者は出ませんでしたが、この建物を立て直すことは困難であったために、洞爺湖町内に新園舎が建設されました。現存している旧とうやこようちえんの建物の中には木や草の種子が入り込み、床や机には苔もむして廃墟の緑化が進んでいます。
⑤旧三恵病院
引用元:https://haikyo.info/
旧三恵病院は有珠郡壮瞥町壮瞥温泉にある倒壊した精神科病院です。昭和52年に有珠山が噴火した際に閉院となり、現在は壮瞥町の噴火遺構として保存されています。
もとが精神病科病院であったためか、こちらも心霊スポットとして有名ですが、建物が壊れかけているために中に入ることは禁じられています。
三恵病院はその後10km近く離れた場所で診療が再開されましたが、平成19年に経営が傾き倒産。現在は他の運営母体が施設を買い取って営業されています。
⑥桑島整形外科
夕張市本町5丁目にある桑島整形外科は、1995年前後までは診療していたとされる廃病院です。現在はベニヤ板で入り口や窓が閉ざされており、中には入れないようになっています。
2007年には市そのものが経済破綻し、ゴーストタウン化が話題となった夕張市ですが、その後も財政難から市民税などの地方税や水道料金は一気に引き上げられ、反面行政サービスは低下の一途を辿ったことから多くの住民がこの街を後にしていきました。
このようなことから廃墟となってしまう建物も多く、市営住宅や図書館も人が住んでいないものの取り壊す資金が無いために放置されているそうです。そんな夕張市に点在する廃墟の中でも「K整形外科」として有名なのが桑島整形外科で、窓や壁、看板が朽ちている一方で内部は医療器具も残ったままだと言われています。
ここまで荒れた外観では近隣から苦情が来るのではないか?と心配になりますが、桑島整形外科の隣家も人が住んでおらず、周辺地域もゴーストタウンと化している様子です。
北海道の廃墟・ホテル編
①ホテルりり(焼失)
引用元:http://blog.livedoor.jp/
ホテルりりは夕張郡由仁町のはずれにあるラブホテルで、鬱蒼とした木々に囲まれた小さく、古めかしい廃墟でした。このラブホテルは廃墟になった後に浮浪者が住み着き、1階にあるボイラー室で首つり死体が見つかったという過去を持っていました。
中にあった時計やカレンダー類は昭和53年で止まっているため、その前後に廃業になったものと見られています。モーテルのような簡素な宿泊施設で、昭和60年以降の雑誌やコンビニの袋なども散乱していることから、この場所に居ついていた人間は複数いたのでしょう。
自殺者がいたためか「必ず霊が出る廃墟」として恐れられましたが、2007年の夏に火災が起きたために窓や扉が壊れてかろうじて残っていた建物も、現在は焼失しています。
②ホテル洞爺マザー牧場
虻田郡洞爺湖町にあるホテル洞爺マザー牧場は、洞爺湖町を走る国道230号線沿いにある巨大な廃墟です。多くの宿泊客を見込んで建てられたホテルですが、洞爺湖まで距離があり、近隣には何の観光資源もないことから客足は伸び悩み、洞爺マザー牧場も昭和48年に閉鎖。それに伴ってホテル洞爺マザー牧場も昭和54年には廃業に追い込まれました。
ホテルを経営していた会社も解散し、買い取り手もいないまま放置されてきましたが、平成18年になってホテル洞爺マザー牧場が注目を集める事件が発生します。建築資材にアスベストが多量に使用されており、町議を挙げての騒動となったのです。
アスベストは昭和40年代に建てられたビルなどに使用された建築資材で、安価で断熱性にも優れていましたが、飛散した繊維を長期間にわたって吸い込むと肺がんなどの重篤な病気を誘発するために社会問題にもまりました。
これを受けて洞爺湖町民が廃ホテルを調べてみたところ、建材にしっかりアスベストが使われていたことが判明したうえ、ガラス窓は割れ、扉も壊れていることから周辺にアスベストをまき散らしていたのではないかと疑いの目が向けられたのです。
検査の結果、周辺地区の大気や地表からはアスベストは検出されなかったのですが、その後も特に対策は取られることなくホテル洞爺マザー牧場は放置されており、今後アスベストの飛散が問題になる可能性もはらんだ危うい廃墟でもあります。
③赤平観光センター
赤平市幌岡町にあった赤平観光センターは、プリンス平安という名前でも知られる冠婚葬祭用の広いホールも擁したホテルでした。国道38号線からも見える位置にあるうえ、内部はグランドピアノやシャンデリアなどもそのまま残っているため、廃墟マニアの間では人気の高い建物です。
かつては地元の人々が結婚式を挙げるとなるとここしかないと言われる程、重宝された施設でしたが、地域から若者が減ってしまい高齢化が進むにつれて経営も悪化。平成12年に廃業を迎えました。廃業前には、近隣の高齢者が温泉目当てにやってくるだけの施設になっていたそうです。
勝手に内部に立ち入る人間が増えたため、現在では敷地内に有刺鉄線が張られて立ち入りが固く禁じられています。近隣には平成3年に人形メーカーが建築したという赤平徳川城の模擬天守閣もありますが、こちらも現在は公開がされておらず、廃墟と化しています。
④白鳥湖観光ホテル
引用元:http://hakkaku-culture.info/
苫小牧市植苗にある白鳥湖観光ホテルは、ウトナイ湖の近くにある白鳥湖から少し離れた場所にある廃ホテルです。少し離れたという点から想像される通りに、「白鳥湖観光」とは名ばかりで、どの客室からも湖は見えないと言います。
また、外観も廃業してから朽ち果てたという以前にトタン葺きの粗末なもので、ホテルというよりも倉庫かガレージかといった印象です。しかし内部には不釣り合いなほど大きな大浴場があり、これを維持するためにかかる費用もホテルの経営を傾かせる要因だったのだろうと予想されます。
引用元:https://gajousan.exblog.jp/
そもそも白鳥湖自体が小さく観光地としてのインパクトが薄く、湖畔には「ファミリーランド白鳥湖遊園地」という一風変わった遊園地もあったのですが、ここも廃墟と化した後に解体されています。
この遊園地はオーナーの男性が1人で管理されていたそうで手作りの遊具や看板がネットでは秘かに話題になりましたが、オーナーが逝去したために跡を継ぐ人がいなくなり、しばらく放置された後に現在は遊具も撤去されたとのこと。
もう少しアクセスしやすい場所にあれば好事家たちが訪れたのかもしれませんが、ここまで周囲に何も無いと客がいることさえ珍しかったようです。
北海道の廃墟・遊園地編
①グリュック王国
グリュック王国は帯広市幸福町にあった敷地面積10万㎡にも及ぶ巨大な遊園地で、昭和末期に町おこしの一環として、帯広空港からほど近い場所に建設されました。
中世のドイツを再現したテーマパークとなっており、平成4年には敷地内でホテルも開業。客足が遠のく冬季は休業していましたが、それでも開業後の3年間は年間の入場者数が70万人を超していました。
しかしその後は入場者数が半分以下に落ち込み、平成10年に巨大温水プール、平成12年にいがらしゆみこ美術館を開設しましたが経営は軌道に乗らず、出資や一部買取をしてくれる企業も見つからなかったことから平成19年5月に倒産をしています。
閉園してからは国内のみならず海外からも廃墟マニアが訪れて不法侵入を繰り返したこともあり、立ち入りが厳重に禁じられるようになりました。そのため、現在は入り口の外から外観を眺めることだけが可能です。
②登別中国庭園・天華園(解体)
天華園は登別市上登別町に存在した中国をモチーフにしたテーマパークです。平成4年に開業し、登別の観光地として50億もの資金を投じて建築されました。
敷地面積は約4万㎡で、清の時代の宮廷庭園を再現したものや高さ40mを越す五重塔、本格中華料理などを売りにして開園当時は27万人の入場者数を記録したと言います。
しかし翌年になると客足は遠のき、早くも経営に陰りが。天華園にはテーマーパークのメインの客層となるはずの、ファミリー層や若者を惹きつけるようなアトラクションがなかったのです。
そのため平成6年には入場者数は初年度の半数に落ち込み、何とかリピーターを作ろうとチャイナドレスのレンタルなども行ったのですが功を奏さず、平成8年になると年間の入場者数は6万人にまで落ち込みました。
その後は中国雑技団を呼んだりと工夫をしたのですが負債は膨れ上がる一方で、従業員がお金を出し合って支えたものの経営は困難になり、平成10年以降は冬季に休園期間と定休日を設けるようになったそうです。しかし、これが逆に天華園に中華料理を食べに来ていた常連客から「閉園した」という誤解を受けてしまい、年間入場者数は1万人をきるようになってしまいました。
そして平成11年に天華園は開園から10年も持たずに廃業したのですが、ピーク時には200人もいた従業員も閉園時には僅か3人までに激減していたとされます。
その後は長らく放置されていましたが平成29年から解体工事が開始され、跡地には大規模な太陽光発電所がつくられています。
③恵山モンテローザ
恵山モンテローザは、函館市柏野町にある高原リゾートでした。昭和63年に札幌の企業が同地にあった経営不振のホテルを買収し、営業が開始されました。
300億円もかけて1次工事が行われ、町にとっても空前絶後の一大観光事業の旗揚げとして注目と期待を集めました。しかし、完成したのはバブル趣味が前面に押し出された黄金の涅槃物や巨大噴水、凱旋門といった世界の有名文化財を並べただけの統一感のない施設で、平成10年には経営が破綻して廃業となっています。
その後施設そのものを町が買い取り、平成15年に全長40mを越す涅槃物が1470万円で札幌市内にある宗教法人に買い取られるなど切り売りをしてきましたが、敷地の買い手探しが難航しているために現在も廃墟として残されています。
北海道の廃墟・炭坑/発電所編
①奔別炭坑
引用元:https://www.city.mikasa.hokkaido.jp/
奔別炭坑は三笠市奔別町にあり、「住友奔別炭鉱立坑」として昭和35年に建造されました。国内初の巻き上げ式の採炭を行った施設で、やぐらの高さは51mにもなります。
100年間採炭することができる東洋一の立杭櫓と称賛を集めましたが、出炭量が少なかったことから地下深くまで掘り下げてしまい、これによって坑内の環境は著しく悪化。高温の環境で作業を強いられたことで退職者が相次ぎ、昭和46年には早くも閉山を迎えることとなりました。
また閉山後も密閉作業中にガス爆発が発生し、作業員5名が命を落とすという悲劇が起こり、そのために建物の一部は鉄骨がむき出しになっています。私有地であるうえに危険なため内部への立ち入りは禁じられていますが、外観を楽しむことは可能です。
②旧北炭清水沢火力発電所
引用元:https://www.shimizusawa.com/
旧北炭清水沢火力発電所は夕張市清水沢にある発電所の廃墟で、内部も部分的に一般公開されているため、前もって「清水沢プロジェクト」のHP経由で予約を入れることで、合法的に見学できる施設です。
大正15年に開業した清水沢火力発電所は北炭を燃料とした発電所で、第二次世界大戦後にも電力不足を補うなどの活躍を見せてきました。しかし石炭の需要が低下したことで平成4年に廃業しており、その後は東亜建材工業株式会社が買い取り、建物の7割が解体されて同社の資材置き場や工場用地として使用されてきました。
引用元:https://www.shimizusawa.com/
残った発電所の建物は平成23年に行われた「夕張清水沢アートプロジェクト」で、内部を公開したことを機に保存が検討されるようになり、現在では5月から10月までの期間限定で公開が行われています。
北海道の廃墟・その他編
夕張保険金殺人事件首謀者の自宅兼事務所
夕張保険殺人事件は、昭和59年に起きた保険金の詐取を目的とした殺人事件です。昭和59年5月5日に、夕張市の南部にある鹿島にあった夕張炭鉱の下請け会社であった日高工業宿舎内で、従業員4名とその子供2名が死亡する火災が発生。さらに消火活動を行った消防士1名も殉職するという惨事となりました。
同年の8月15日に日高工業の従業員であった石川清が、同社の経営者であった日高安政・信子夫妻に依頼されて宿舎に火をつけたことを自白、同月19日に日高夫妻も逮捕されています。
日高夫妻は犯行の3年前に起こった夕張炭坑内の事故で従業員を亡くし、その折に多額の保険金を受け取っていました。それに味を占めたことから自ら放火を企てて従業員を殺害し、生命保険と火災保険を合わせて1億3000万円もの保険金を詐取していたのです。
その後の裁判で昭和62年に実行犯の石川に無期懲役、日高夫妻には死刑の判決が下ったのですが、夫妻は昭和天皇崩御の恩赦による減刑を期待して控訴をしませんでした。しかし夫妻の期待は外れて恩赦はなく、平成9年に死刑が下されました。
夫妻が逮捕された後は日高工業は廃業となり、残った従業員も去っていきました。そのため日高工業の事務所兼経営者夫妻の自宅であった建物は、放置されたままに。
現在は周辺もゴーストタウン化が進んでいることから建物も朽ち、入り口には「クレジットの信用商事 シャクリーファミリークラブ日高商事」という看板が掛けられています。
まとめ
炭坑が多かったことから、エネルギー革命後に複数の廃墟が誕生したという歴史を持つ北海道。夕張のように廃墟が多数存在する町もあり、土地が広大な故に見切り発車でつくってしまったような不思議な建造物の廃墟も見られます。
また実際に事故や災害によって廃墟となった場所も多いため、危険な廃墟が多いのも北海道の特徴です。訪れる場合は外観を楽しむ、近隣住民から廃墟にまつわる話を聞くなどにとどめ、禁じられた場所の中には入らないようにしてくださいね。