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世界最古の木造建築ランキングTOP10

木造建築とは、その名の通り、木材を使用した建物の建築方法のことをいいます。

コンクリートや鉄骨による建造法が生まれる前には、人類にとって建物を建てるときの主要な方法の1つでした。

日本でも、古くから用いられてきた方法で、日本にある歴史的な建造物はほぼすべて木造建築となっています。

日本には古い建物が多く、世界遺産に登録されているものもありますが、じつは、世界最古といわれる木造建築のほとんどは日本に存在しているのです。

ここでは、現存している世界最古の木造建築をランキング形式で紹介していきます。

10位 唐招提寺(759年)

引用:ja.wikipedia.org

唐招提寺は、奈良にある寺院で、759年に唐から来日した僧の鑑真によって建立されました。

唐招提寺の金堂は、唯一の現存する奈良時代に建てられた寺院の金堂で、他にも奈良時代に建てられた講堂などたくさんの国宝や重要文化財があります。

1998年には奈良にある文化財の一部としてユネスコの世界遺産にも登録されました。

鑑真は、仏教において戒律を授ける導師として日本に招待されました。

しかし、中国から日本へと渡る航海には大きな危険が付きまとい、さらに、当時の唐では国外への出国が禁止されていました。

鑑真の来日は、船の難破や密告者により何度も失敗し、753年の6回目の渡航計画でようやく日本に来ることができましたが、そのときには鑑真はすでに66歳になっており、目も見えなくなっていました。

日本にやってきた鑑真は、朝廷から大僧都の地位と唐招提寺に当たる場所の土地を与えられ、ここに寺を建立しました。

唐招提寺金堂

引用:www.toshodaiji.jp

後に唐招提寺の名前を与えられるまで、当初この寺は「唐律招提」という名前でした。

唐では官寺ではない寺のことを「招提」といったため、唐律招提という名前には「唐の戒律を学ぶ道場」という意味がありました。

763年、76歳の鑑真は、日本でその波乱の人生を終えています。

唐招提寺の金堂は、このお寺のなかで現存している最も古い建物で、781年に伐採された木材が使用されているため、それ以降に建てられたものと見られています。

内部は、本尊である帝釈如来立像や薬師如来像、千手観音像などが置かれており、薬師女体と千手観音の組みあわせ唐招提寺以外には、他に例のないものとなっています。

9位 東大寺 (758年)

引用:ja.wikipedia.org

東大寺は奈良県にあるお寺で、中国仏教の一派である華厳宗の大本山となっています。

有名な奈良の大仏があるお寺で、1998年には奈良の文化財の一部として、世界遺産にも登録されています。

東大寺には国の史跡にも指定されており、たくさんの国宝や重要文化財があります。

東大寺は、聖武天皇の子供を弔うため良弁という僧によって728年に開山された金鍾山寺という寺が前身となっています。

東大寺の名で呼ばれるようになったのは、8世紀に聖武天皇によって、大仏が建立されてからです。

聖武天皇と大仏

引用:www.travel.co.jp

この大仏は、奈良の大仏として全国的にも有名で、正式には廬舎那仏(るしゃなぶつ)といわれ、東大寺の本尊になっています。

大仏の建立が始められたのは747年のことといわれ、竣工したのは758年で、当時流行していた天然痘を鎮めるために行われました。

735年~737年の間に発生した天平の疫病大流行は、老若男女を問わず、100万~150万人の命が失われたといわれ、これは当時の日本の人口の25~35%に当たる数字であるため、じつに4人に1人が亡くなっていたことになります。

当時の都であった平城京でも、多数の死者が出て、貴族として政権を担い、権力を握っていた藤原四兄弟も相次いで病死するなど、日本の中枢にも影響を与えています。

この頃、天災や疫病は、為政者に徳がないため、いわば天罰のようにして起こるものであると考えられていたため、時の聖武天皇は大変心を痛めるとともに、自らの責任を感じ、疫病を鎮めるために仏教への帰依が必要だと考えました。

このために、動物の建立が命じられ、日本各地には国分寺も建てられました。

奈良の大仏は、その後の歴史の中で、2度戦乱によって焼け落ち、現在は台座など一部を残して復元されたものとなっていますが、古くから「大仏さん」と呼ばれ、多くの日本人の信仰を集めてきました。

東大寺法華堂

引用:ja.wikipedia.org

最古の木造建造物としての東大寺は、法華堂本坊経庫などが奈良時代のままの建物が現在も残っています。

国宝の法華堂は、建造当時は羂索堂(けんさくどう)と呼ばれており、前身の金鍾山寺の本堂として建てられたものです。

内部は、北側の正堂(しょうどう)と南側の礼堂(らいどう)部分に分かれており、本尊である不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)立像や金剛力士像、四天王立像など安置されています。

8位 正倉院正倉(756年頃)

引用:ja.wikipedia.org

東大寺大仏殿の北に位置する正倉院は、奈良時代に作られた大規模な校倉造の高床式倉庫です。

校倉造りは、倉の建造方法として世界各地にみられるもので、日本では、断面が三角形になっている木材の平らな面を内側にして積み上げる方法が発達しました。

正倉院は、1997年に国宝に指定され、翌年の1998年にはユネスコの世界遺産にも登録されています。

正倉院は、元は東大寺の正倉(倉庫)だったもので、なかには奈良時代のたくさんの宝物が保管されています。

この宝物は外国産のようにもみえますが、研究によるとその95%が外国のデザインを取り入れた日本産のものであることがわかっています。

正倉院には、絵画や書跡、漆器、木工、刀剣、陶器、ガラス器、楽器、仮面などが所蔵されていて、一部には中国やペルシャからシルクロードを渡って輸入されたものもあります。

正倉院の宝物は奈良時代の日本の文化などを研究する上で非常に貴重な資料となるものがたくさん保管されていて、東大寺の大仏開眼法要にも使用された仏具や古代の薬品なども保管されています。

756年、光明皇后が夫であった聖武天皇の49日目の法要の際に、天皇の遺物である愛蔵の品々650点と60種の薬物を東大寺の大仏に奉納したのが正倉院の宝物のはじまりとされています。

正倉院の建立も、正確な時期は不明ですが、この前後であると考えられています。

正倉院はもともと正倉と呼ばれており、「正税を収める倉」という意味で、律令時代に各地から集められた税である穀物などを補完するため、大蔵省などの役所に設けられていた倉庫でした。

もともとは、南都七大寺と呼ばれた、奈良時代に朝廷の保護を受けていたすべての寺院に正倉が存在していましたが、時代の経過とともに失われ、東大寺のものだけが現存しています。

そのため、現在では正倉院というと、東大寺の倉庫を指す固有名詞になっています。

7位 手向山八幡宮 (752年頃)

引用:narakanko-enjoy.com

手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)は、手向神社も呼ばれ、奈良県の手向山の麓に位置する寺院です。

手向山は、百人一首にもある菅原道真の歌にも詠まれた、紅葉の名所として知られる場所で、境内には菅原道真が座ったといわれる菅公腰掛石も存在しています。

手向山八幡宮は、752年ごろ、東大寺の大仏を建立するにあたり、その守護神を祀るべく建てられたものです。

手向山八幡宮には社殿の西側に建てられた、奈良時代の校倉造りの宝庫が現存しており、北側にある東大寺の法華堂経庫と並んで貴重な奈良時代の建造物となっています。

手向山八幡宮は、その誕生経緯から東大寺と関係が深く、この宝庫ももともとは、東大寺の油倉の近くにあったものとされ、東大寺の法華堂経庫と一緒に建っていたとされ、現在の場所に移されたのは江戸時代後期にあたる1813年のこととされています。

宝庫のなかには、かつては仏様に供えるための燈油が収められていたようですが、現在は、転害会で使用されていた国宝の唐鞍と呼ばれる馬具や、宝輦(ほうれん)と呼ばれる神輿などが所蔵されています。

じつは、手向山八幡宮にはかつて2つの宝庫があり、残念ながら1つは現在では失われてしまっています。

6位 當麻寺 (750年頃)

引用:ja.wikipedia.org

當麻寺(たいまでら)は、聖徳太子の異母弟である麻呂古王によって開かれたとされる寺院で、極楽浄土の様子を表した「當麻曼荼羅」が信仰されています。

境内に残る三重塔は、奈良時代から平安時代にかけて建立されたものが現存しており、近世以前に建てられた東西両塔が残っている日本で唯一のお寺となっています。

特に、奈良時代末期に建てられた東塔は、日本でも最古の建造物のうちの1つとなっています。

これが、當間寺に伝わる當間曼荼羅の起源であると伝えられています。

この話は庶民にも人気があり、江戸時代には浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなりました。

この東塔、2階と3階の部分では、柱が3本で柱間が2か所になっていて、柱間を偶数とするのは日本の寺社建築では異例となっており、古塔では當麻寺でのみみられるものです。

さらに、屋根の上の相輪が九輪ではなく八輪になっていたり、水煙と呼ばれる火炎上の装飾金具が、他には見られない魚の骨状のデザインになっていたりと、他の仏塔には見られない異質な点が多いことが特徴です。

中将姫伝説

引用:ja.wikipedia.org

さて、もう1つ、當間寺で有名な當麻曼荼羅には、中将姫説話といわれる伝説が残されています。

この伝説は、大化の改新で知られる藤原鎌足の曾孫にあたる藤原豊成の娘である中将姫の物語です。

幼い時に実の母を亡くした中将姫は、たいそう美しい女性でしたが、継母によって育てられ、執拗にいじめられていました。

ある日、中将姫は継母から無実の罪を着せられて殺されそうになります。

しかし、姫の殺害を命じられた男は、一心に極楽往生を願い読経する姫の姿を見て心を打たれ、姫をひばり山と呼ばれる場所に置き去りにして姫は命を救われます。

やがて、姫は當間寺で出家し、極楽往生を願って誤植の蓮糸を使って、一夜で曼荼羅を織り上げたといわれます。

5位 新薬師寺 (747年)

引用:ja.wikipedia.org

新薬師寺は、光明皇后によって建立されたといわれる寺院で、奈良時代には南都十大寺の1つにも数えられました。

平安時代には規模が縮小されましたが、最盛期には今よりもかなり広い敷地をもっており、奈良教育大学の校舎改築に伴う発掘調査では敷地内から新薬師寺の金堂跡が見つかっています。

境内には、創建当初のままで残る本堂があり、十二神将像をはじめとするたくさんの文化財が保管されています。

新薬師寺の本堂は、現在まで残されている奈良時代の遺構としてとても貴重なものです。

新薬師寺は、747年に光明皇后が夫である聖武天皇の病気平癒のために建立したとされ、官立寺院であることはわかっていますが、正史には記載がないため、正確な建立の時期などについてははっきりとわかっていない部分があります。

新薬師寺には、香山薬師寺、香薬寺、香山寺といった別名があったことが伝えられています。

新薬師寺は大寺院として隆盛を誇っていましたが、962年に台風によって金堂が倒壊するなど次第に衰退し、何度か復興も行われたものの、当初の規模に戻ることはなく、徐々に縮小していき、今の姿になったとされます。

新薬師寺本堂

引用:http://www.shinyakushiji.or.jp/

新薬師寺の本堂は国宝に指定されており、本瓦拭きで内部は土間になっていて、天井を貼らずに構造材をそのままみせる化粧屋根裏になっています。

本堂の中央には本尊である薬師如来像が安置され、これを囲むようにして十二神将像が外向きに並んでいて、どちらも国宝に指定されています。

この建物は、建立当初は本堂ではなく、もとは密教の修業を行う壇所と呼ばれる場所であったものを金堂の倒壊などによって、本堂に転用されたものだと考えられています。

4位 海龍王寺(745年)

引用:ja.wikipedia.org

海龍王寺(かいりゅうおうじ)は、奈良にある十一面観音を本尊とする寺院で、光明皇后の皇后宮の北東の隅に建っていたことから、別名、隅寺(すみでら)と呼ばれます。

海龍王寺には、他にも「隅院」「角寺」「角院」などの呼び名がありました。

この場所はもともと藤原不比等の邸宅があったもので、不比等の死後に光明皇后が相続し、法華寺と海龍皇子が建立されました。

海龍王寺の五重小塔は、高さ3メートルほどですが、建物として国宝に指定されています。

奈良時代の海龍王寺には、中金堂、西金堂、東金堂の3つの金堂がありました。

このうち、西金堂だけは奈良時代のものが現存していますが、鎌倉時代に大規模な修繕を受けているため、主要な部品は鎌倉時代のものになっています。

中金堂、東金堂はすでに失われており、再建もされていません。

海龍王寺は、平安時代には興福寺の支配下にあり、鎌倉時代には真言律宗のなかでも筆頭格の寺院でした。

江戸時代にも寺領が100石ほどありましたが、明治時代に没収され、その後は没落して境内も荒廃が進みます。

住職も長い間いない時期が続いていましたが、1953年に住職が着任してからは境内の修理、整備が行われました。

3位 薬師寺(730年)

引用:gurutabi.gnavi.co.jp

南都七大寺の1つに数えられる薬師寺は、天武天皇によって開基されたもので、興福寺とともに法相宗の大本山になっています。

1998年には奈良の文化財の一部としてユネスコの世界遺産にも登録されています。

薬師寺は天武天皇によって藤原京に建てられたものですが、平城京への遷都に伴い、奈良に移転されていました。

10世紀ごろまでは藤原京のほうの建物も引き続き存続していましたが、後に廃寺となっています。

薬師寺は、天武天皇が皇后で後の持統天皇になった鵜野讃良(うののさらら)の病気平癒を祈願して建立したものです。

建立に当たっては100人の僧を得度(出家)させたといわれます。

しかし、天武天皇は寺院の完成をみることなく他界し、建造は持統天皇の代へと引き継がれました。

薬師寺自体が藤原京から移転されてきたことはわかっていますが、現在の東塔や本尊である薬師如来像までが移転されてきたものかどうかについては議論があります。

現在では、東塔は平城京で建立されたもので、薬師如来像についてはもとの寺院から移転されたものというのが定説ですが、この論争にはまだ決着がついていません。

薬師寺東塔

引用:http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/

薬師寺の東塔は寺のなかで最も古い建物で、境内に現存する唯一の奈良時代の建物となっています。

薬師寺の東塔は、34.1メートルで、江戸時代以前に建てられた仏塔としては日本で4番目の高さを誇ります。

一見すると、屋根が6つあることから、六重の塔に思えますが、じつは1、3、5番目の屋根は裳階(もこし)と呼ばれる風雨から建物を守るための構造物で、実際には三重塔になっています。

塔の先端部には飛天像が透かし掘りされた水煙には奈良時代の高い工芸技術を見ることができます。

明治時代、この塔を見たアメリカ人の美術家アーネスト・フェノロサは、これを評して「凍れる音楽」といったといわれます。

2位 法起寺 (706年頃)

引用:travel.mar-ker.com

法起寺(ほうきじ、ほっきじ)は、岡本寺、池後(いけじり)寺とも呼ばれ、十一面観音を本尊とする聖徳宗の寺院です。

法起寺は、聖徳太子が建てたものともいわれ、聖徳太子建立七大寺の1つに数えられることもありますが、寺院の完成は太子が亡くなってから数十年後のこととされます。

奈良時代に建てられた三重塔は国宝に指定されており、1993年には法隆寺とともに世界遺産にも指定されています。

20世紀頃までは「ほっきじ」と呼ばれていましたが、この世界遺産への登録に伴って、正式な呼び名が「ほうきじ」に統一されました。

しかし、昔から親しまれた呼び名である「ほっきじ」のほうも、今でも多くの人に使われています。

法起寺のある場所は、もともと聖徳太子が法華経を講じた岡本宮のあった場所とされ、これが法起寺のもとになっているといわれます。

法起寺自体は、638年に金堂が建てられ、706年には恵施僧正によって三重塔が建立されました。

法起寺の三重塔は高さ24メートルで、三重塔としては日本最古のものになります。

日本の仏塔では柱が4本で柱間が3間というのが一般的ですが、この三重塔は、第三層のみ柱間が2間という特殊な構造になっています。

塔の心柱の礎石である心礎が、地中深くに据えられている法隆寺の五重塔と違って浅い位置にあり、法隆寺よりも後の時代に建てられた寺院であることを表しています。

1位 法隆寺(670~700年頃)

引用:ja.wikipedia.org

7世紀に創建されたとする法隆寺は、聖徳太子ゆかりの寺院であり、現存する日本最古の木造建築としても知られています。

1993年には世界遺産にも登録されており、建物だけでなく、内部にも仏像などたくさんの文化財が保管されています。

法隆寺のある斑鳩は、交通の要所として古墳時代から栄えていたことがわかっており、601年に聖徳太子が飛鳥から新しい宮殿である斑鳩宮へと移り、これに隣接して建てられたのが法隆寺です。

明治時代まで、法隆寺の西院伽藍等の建物は創建以来一度も火災に遭うことなく、奈良時代そのままの建物が残っていると信じられてきました。

しかし、『日本書紀』には法隆寺が全焼したとの記述も見られることから、現存する法隆寺の伽藍は火災のあとに建てなおされたものではないかという説も出て、両者の間で論争が起こりました。

発掘調査により、現在、法隆寺の伽藍等は火事のあとに建てなおされたものであることが決定的になっていますが、それでも、693年頃には再建されていたとみられ、日本最古の木造建物であることに変わりはありません。

法隆寺 西院伽藍

引用:tokuhain.arukikata.co.jp

法隆寺の西院伽藍は、南大門の正面に位置し、向かって右に金堂、左に五重塔を配置し、これらの周囲に凸型の回廊が巡らされています。

回廊の南には中門があり、大講堂へと続いています。

中門や金堂は国宝にも指定されており、中の間、西の間、東の間に分かれた金堂内には、国宝の釈迦三尊像、薬師如来像などが安置されています。

金堂や五重塔にみられる曲線を多用した部材や建物4隅の組み物が斜めに出ることなど、法隆寺の他には法起寺三重塔、法輪寺三重塔などにのみ見られる飛鳥様式といわれる珍しい様式になっています。

これらの建物群こそが、日本で最も古く、また世界でも最も古い、最古の木造建築群です。

番外:中国、ヨーロッパ最古の木造建築

世界最古の木造建築物ランキングは1位~10位まですべてが日本の建物という結果になりました。

そこで、最後に、日本以外の国にある最古の木造建築物をご紹介します。

応県木塔

引用:ja.wikipedia.org

応県木塔は中国の山西省朔州にある仏宮寺のなかに木造の仏塔で、1056年に建てられたものとされ、世界で最大最古の八角形の木塔となっています。

高さ67メートルで、外観では5階建てのように見えますが、内部は9層に分かれており、第1層に高さ11メートルの釈迦如来坐像が祀られています。

遊牧民の王朝である遼(契丹)の第7代皇帝、興宗の親戚にあたる蕭孝穆(しょうこうぼく)によって建てられたもので、完成したのは着工された1056年から140年後のことだったといわれます。

ベツレヘムの家

引用:4travel.jp

現存するヨーロッパ最古の木造建築といわれるベツレヘムの家は、スイスの国名の由来にもなったシュヴィーツ州の街シュヴィーツにある家屋です。

ベツレヘムの家は、1287年の夏に地元の裕福な一家によって建てられたもので、15人から20人ほどが住んでいたといわれる大きな家で、現在内部は博物館として使われています。

スイスの温暖な気候では石造りよりも木造の家の方が、住み心地がよかったため、ベツレヘムの家は、中世におけるこの地方の一般的な住宅様式をしています。

こうした住居は、冬の終わりに木を切り出し、新鮮な木材を使用して春から秋の間に建てられるのが一般的でした。

17世紀には街のほとんどを焼き尽くした大火災が発生しましたが、奇跡的にもベツレヘムの家は延焼を逃れています。

まとめ

以上、世界最古の木造建築ランキングを紹介してきました。

ランキングTOP10のすべてが日本の建物という驚きの結果になりました。

もともと、世界にはもっと古い木造建築があったのでしょうが、現代まで残っているのは日本の建物ばかりです。

中国やヨーロッパの古い木造建築は10世紀以降のものばかりで、いかに日本に古い建物が多いかということがわかります。

奈良時代に建てられたものばかりで、戦乱や地震や火災といった数多くの人災、天才をくぐり抜けてこれらの建物が何百年もの間、残ってきたということは、それだけでも凄いことであり、これからもこうした歴史的な建造物は守り続けていきたいものです。

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