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【日本最凶】本当に怖い首塚6選

戦死者の首を祀るものとして、日本全国に存在する首塚。

首や胴体など死者の一部を埋葬したとされる墓は、全国で665例が確認されています。

各地に残る首塚伝承の中には、首から上の病気の治癒に霊験があると信じられているものも存在しますが、ほとんどが有名な平将門の首塚のように怨念の塊として恐れられてきました。

日本に残る首塚とそこに埋葬された戦死者の背景、言い伝えられている祟りについて紹介していきます。

 

日本最古の首塚伝承・蘇我入鹿の首塚

日本最古の首塚伝承とされているのが、645年に奈良県の飛鳥板蓋宮で殺害された蘇我入鹿の首塚です。乙巳の変と呼ばれる蘇我入鹿殺害事件は蘇我一族の専制を排除して、後に大化の改新へとつながる出来事だと考えられています。

戦死者でもない入鹿の首塚があること、そして何故か入鹿の首塚が明日香村とその周辺に3箇所にある理由については、入鹿は乙巳の変ではなく、中臣鎌足(藤原鎌足)との間で行われた合戦で命を落としたからだという説も存在しますが、これに関しては信憑性が乏しいことからあくまでも可能性の1つとされます。

『日本書紀』には入鹿の殺害は宮中で行われていた朝鮮三国からの使者をもてなす席で決行されたとあり、中大兄皇子が浴びせた初太刀で頭と肩を斬られ、佐伯連子麻呂と稚犬養連網田によってとどめを刺されたと綴られています。

そして亡骸は降りしきる雨を避けるためにムシロを被せて、甘樫丘(現在の奈良県明日香村香村豊裡)付近にあったという父親の蘇我蝦夷の邸宅に運び込まれたと書かれているのですが、歴仁二年に編纂されたという『多武峯縁起』では入鹿の死について異なる伝承が紹介されているのです。

『多武峯縁起』によると入鹿が中大兄皇子によって斬首されており、その際に刎ねられた首が殿中の暖簾に噛み付いた、石の柱に食らいついたといった怪談が付け加えられています。

これを元に描かれたのが上の画像にある『多武峯縁起絵巻』なのですが、斬られた首が空中に舞い上がっている様子が見られます。そしてこの絵や『多武峯縁起』の伝承を元に、鎌倉時代初期には入鹿の首塚と首にまつわる様々な伝承が誕生したのです。

中には入鹿の首が中大兄皇子を追い回した、夜中になると首塚から首が飛び出して暴れまわるといったものもあり、父親の蝦夷が自害したことも重なって、蘇我一族の呪いについての伝承はまことしやかに語り継がれるようになったとされます。

現在明日香村にある蘇我市の氏寺である飛鳥寺には入鹿の首塚がありますが、伝承では斬られた首がここまで飛んできたことから、この地に首塚を建立したと言われているのです。

当時どのような祟りがあったのかは史実には残されていません。しかし飛鳥寺にある首塚は五輪塔の姿をしており、このような塚が建てられるようになったのは平安時代末期からであるため、入鹿の祟りを恐れた後世の人々が二度と彼が再生しないように厳重に封印をしたという可能性も指摘されています。

また、かつて入鹿に縁がある地域では、鎌足を祀る談山神社を参拝してはいけない、明日香村の小原地区は鎌足の母親の生地であるから出身者と結婚してはいけない、鎌足を彷彿とさせるから農作業に鎌を使ってはいけないという禁忌も語り継がれていたそうです。

 

「悲運の天皇」大友皇子の首塚・自害峯

引用元:http://www2.kanko-sekigahara.jp/

岐阜県関ヶ原町松尾には、「かえらず」という意味深な名称で呼ばれる石があります。この石は以前は中山道の路傍にあり、腰掛けて休んだ人が再び立ち上がろうとすると尻が石から離れなくなってしまったという伝承も存在しました。

そのため地元では恐怖の対象になっていたのですが、この「かえらず」こそが壬申の乱で命を落とした大友皇子の生首が据え付けられた場所だとされます。

壬申の乱で最後の防衛拠点であった瀬田橋・粟津で敗走した大友皇子は、山前という地で首を吊って自決したと『日本書紀』には記されています。そして首と胴が切断されて、首のみが野上にいる大海人皇子に届けられたと伝えられているのです。

大友皇子の首は大海人皇子の元に届けられた後に、大海人皇子に加勢したこの地の人々に下賜されたといいます。これを土地の人が埋葬したのが、岐阜県関ヶ原町藤下にある自害峯と呼ばれる森です。大友皇子の首塚とされる場所には3本の杉の木が生え、今日では聖地として扱われています。

大友皇子は正当な天皇の後継者でありながら非業の死を遂げており、怨霊として扱われても不思議はない人物だとする見解もありますが、自害峯には祟りや怪異譚が伝わっていません。

自害峯と大友皇子を祭神とする若宮八幡宮を有する藤下地区では、大友皇子から皇位を奪った天武天皇(大海人皇子)を祀る井上神社が位置する松尾地区出身の人間とは結婚や養子縁組が禁忌とされていましたが、大友皇子に関する変わった風習というのはこの1点くらいです。

民俗学者の桜井徳太郎氏は、中世において非業の死を遂げた者の死霊であっても、死後人々に手厚く供養されれば怨霊にはならず、逆にプラスの機能を表すという側面があると考察しています。

この考えに立つと、悲運の天皇とされる大友皇子ですが、藤下の人々から護られ信仰されてきたことによって怨霊ではなく土地の守り神になったと言えるでしょう。

 

日本最恐の首塚・平将門の首塚

日本に数多存在する首塚のうち、最も数多くの伝承が残されているのが東京都千代田区大手町にある平将門の首塚でしょう。将門本人が生前どのような人物であったかよりも、首塚と祟りの方がよく知られていると言っても過言ではないはずです。

平安時代の中期、当時坂東と呼ばれていた関東地方に拠点をおいていた平将門は、京都の朝廷に対して反乱を起こしました。そして940年2月14日に下総国猿島(茨城県坂東市)にて平貞盛、藤原秀郷の軍に敗れて戦死を遂げました。

死後、将門の首は京都へと運ばれて洛中でさらし首にされたと言われています。その後、首は勝手に関東方面に向かって飛び立っていき、途中で力尽きて落下した場所が現在の首塚がある場所だとされているのです。

これが将門の首塚にまつわる伝承の概要ですが、この塚は江戸時代末期までは酒井雅楽頭家の屋敷敷地内にありました。それが明治2年に一帯の土地が大蔵省の所有になったことで、首塚も大蔵省の庁舎の敷地内にそのまま置かれることとなりました。

ところが大正12年9月1日に関東大震災が発生したことで、庁舎は消失。大蔵省は焼け跡に仮設庁舎を建てるために首塚の墳丘を取り壊し、整地を行ったのです。

首塚周辺の整地が行われると、当時の大蔵大臣であった早速整爾が就任から僅か3ヶ月で急死。他にも同省の職員から次々に怪我人や病人が相次いで発生しました。

そしてそれら一連の不幸な出来事が、首塚を取り壊し、その上に仮設庁舎を建てたことによる平将門の祟りだと噂されるようになったのです。

引用元:https://article.yahoo.co.jp/

これを受けた大蔵省は仮設庁舎を撤去した後に、将門の慰霊祭を執り行いました。その後収まったかのように見えた将門の怨霊騒動ですが、昭和15年6月20日には落雷によって庁舎が焼失、第二次大戦後に首塚周辺でアメリカ軍作業員が事故死するといった事件が起こり、それらも将門の祟りだと囁かれたのでした。

戦後になると首塚周辺の土地は、国から民間へと払い下げられました。しかし、そこにビルを所有する企業の中では今もなお将門の怨霊譚は生き続けているといいます。

実際に首塚の周辺に本社のある三菱東京UFJ銀行、三井物産などの企業では、首塚の方向に尻が向かないように(将門に失礼がないように)、オフィス内の机の位置を変更するといった措置まで取られていたそうです。

 

将門が怨霊として扱われた理由

全国各地に首塚がある中で何故平将門の首塚だけがここまで怨霊譚を数多く持ち、恐れられてきたのかについて、民俗学者の室井康成氏は「将門がさらし首という行為の嚆矢だったからではないのか?」と考察しています。

前述の蘇我入鹿を始め、将門以前にも首塚は複数建てられてきました。しかしどの将についても「首を何処何処に持っていった」という伝承は残っていても、さらし首にされたという文言は見当たらないのです。

つまり将門以前に首を落とされて首塚を建てられた人物は、敵の大将に首を確認させた後はすぐに埋葬されていたものと考えられます。しかし将門だけは朝廷に歯向かった逆賊として、見せしめとしてさらし首という異例の扱いを受けたのです。

当時の人々にとって、人間の生首が洛中に掲げられるという異様な行為がどれほどのインパクトを持っていたかは想像に難くありません。

良くも悪くも、余程話題になったのでしょう。将門の戦死以降、朝廷に反乱を起こした軍の大将は洛中においてさらし首にされるという行為が一般化され、当該人物を討ち取った将が鴨川の河原で検非違使へと首を引き渡し、わざわざ衆目の多い大通りを通ってそれを運んだ後、一番目立つ場所にさらし首にするというパフォーマンスが習慣化されたと言われています。

 

将門の怨霊譚の変化

首が空を飛んだという伝承は後世につけられたものですが、首を斬られても将門が生き続けたという話は鎌倉時代には存在していました。

鎌倉時代初期に成立したと考えられている『平治物語』の中には、さらし首にされた将門の前で洒落のきいた句を詠んだところ、生首が「しい」と笑ったという下りが描かれています。

これが文献に見られる将門の怨霊譚の最古のものとされていますが、以降『太平記』などで誇張されていったことで現在の将門の祟りが形成されたと歴史学者の村上春樹氏は考察しています。

『太平記』の中では将門の首は斬られてから3日もの間、瞳孔も開いたままで皮膚の変色もなく、常に歯ぎしりをして「斬られた胴体と首を再びつなげて、もう一合戦繰り広げたい」と無念を口にしていたと綴られています。

そしてこのくだりから将門は胴と体を繋げたがっている、京都にあった首が胴体を求めて関東方面に飛び立っていったという伝承が生まれたと考えられているのです。

 

将門にまつわる都市伝説

引用元:http://dx2megaten.com/

将門の祟りに関する都市伝説は多く、山手線は平将門の怨霊から東京を守る結界の役目をしているとの説もあります。

他にも近年ではゲーム『女神転生』シリーズで平将門を悪魔として登場させた際、右手が見切れるようなレイアウトで将門のイラストを攻略本に掲載したらスタッフが右手を骨折した、将門の首塚に参拝をしなかったから発売元のアトラスが倒産の危機に陥ったという都市伝説もあります。

現在も祟りが囁かれる将門の首塚ですが、裏を返せば未だに強い存在感を放ち、また崇拝されているとも言えるでしょう。

なぜ戦死した将の中でこれほどまでに将門が特別視されているのかについては、将門ゆえんの首塚や神社が徳川将軍家のお膝元である江戸の中心部に存在したこと、そして将門が「新皇」を名乗って中央政府に反旗を翻したことが挙げられます。

江戸時代の市井の人々にとって、将門は反骨心・反権力の象徴であったと推測されています。幕府に不満があってもそれを行動に移すことができすに鬱憤を溜めていた人々が将門の反乱に思いを馳せ、彼をある種の英雄として見ていたことも、後世まで怨霊譚が語られていることの一因と考えられているのです。

 

楠木正成の首塚と野木神社

天皇自身に権力を集中させるという専制国家体制を構想したことで、武家からの反発を少なからず集めたという後醍醐天皇。鎌倉幕府に変わり、後醍醐天皇が京都で新しく発足した政権は後に「建武の新政」と呼ばれることとなりますが、天皇の独裁政権であったことから早い時期から武家との間に軋轢を生んでいました。

建武2年に鎌倉幕府の残党が軍事蜂起すると、足利尊氏は直ちに軍勢を鎌倉に進めてこれを鎮圧。そしてその後も京へは帰還せずに鎌倉に拠点を置いたのです。

尊氏の権力は強大で実質的に京と鎌倉の2箇所にそれぞれ政権が誕生したことになるのですが、独裁を望んでいた後醍醐天皇がこれを納得するはずもなく、新田義貞に足利家を討つように命令しました。

その後戦局はめまぐるしく動き、時の天皇は最終的に後醍醐天皇は尊氏が立てた光明天皇の2人となったのですが、この最中に後醍醐天皇の忠臣として尽力して命を落としたのが楠木正成です。

『太平記』によると楠木正成は後醍醐天皇に謁見した際、味方の敗北が濃厚なことを提言しようとしていました。しかしその意見は軍事に疎く、朝廷の面子を重んじる公家達によって退けられ、正成は天皇への忠義を見せるために死ぬと分かりきった戦場に出向いたとされます。

そして建武3年5月25日、兵庫県の湊川一帯で新田義貞と楠木正成の連合軍が足利尊氏の大軍と激突しました。この湊川合戦の中で負けを覚悟した正成は、弟と近臣とともに湊川の北にある民家に入って自決したといいます。

結果、湊川の戦いは足利尊氏の圧勝に終わり、正成の首は京都に運ばれて六条河原にさらされた後に妻子のもとに届けられました。

正成の首は妻子によって楠木家の菩提寺である河内長野市の観心寺の境内の一角に埋葬、御首塚とされました。しかしここに本当に正成の首が埋まっているのかについては、戦前より歴史学者の間で疑いが寄せられていたといいます。

その根拠となるのが延宝7年に刊行された河内の地方紙『河内境』に首塚の記載がなく、その20年後の享保20年になって突然首塚の存在がクローズアップされていることが挙げられます。

この年、観心寺では正成の400年忌が行われており、それに合わせて御首塚もでっち上げられたと考えられているのです。正成の障碍をまとめた『千早赤阪村誌』では、観心寺の御首塚の下に眠っているのは同寺において死去した後村上天皇の母親であり、この墓が楠木正成の首塚と誤伝されたと結論づけています。

では本当の正成の首はどこにあるのかというと、かつて正成が鎌倉幕府を撃退した千早城の跡地から金剛山につながる山道の中にある質素な五輪塔の下だとの説もあります。

この場所は現在の地図では「楠木正儀の墓」とされていますが、古地図や神社明細帳には楠木塚、正成塚、首塚などと記されていて、近隣の住民からは親しみを込めて「首塚さん」と呼ばれてきたそうです。

引用元:https://yaokami.jp/

また畿内から遠く離れた群馬県館林にも正成の首塚が存在します。現在、楠木神社が建てられている場所がその跡地であるとされますが、何故このように遠く離れた場所に首が運ばれてきたのかについて、地元には以下のような伝承が残っています。

湊川合戦で戦死した正成の首は偽物とすり替えられた後に秘密裏に塩漬けにされ、巡礼姿をした5人の家臣によって北畠顕信のいる奥州へと運ばれることになりました。1年以上かかって、当時「羽附村」と呼ばれていた付近までたどり着いた際、家臣らの夢枕に正成が現れて「この土地に首を埋めてくれ」と言ったのです。

翌朝、家臣達が昨晩の出来事を無視して正成の首が入った桶を背負おうとすると、桶は昨日までとはうってかわって根が生えたかのように重くなり、ここへきて家臣達は昨日見た夢は正成の本心だと考えるようになり、近くの川で首を洗って埋葬し、その上に祠を作りました。

そして正成を祭神としたのですが、これが足利家に見つからないように「くすのき」から二文字を抜いて「のぎ神社(野木神社)」と命名しました。

これが野木神社(現在の楠木神社)に伝わる話で、首を運んだ5人の家臣はそのまま土着して首塚を守り、現在の小林、田部井、石井、半田、江森の五氏はその末裔だと言われています。

歴史的には正成と北関東に縁故は無いように感じられますが、楠木家にまつわる伝承はこの首塚の付近にいくつか残っており、埼玉県秩父地方の山間には楠木一族が落ち延びて作ったという「藤指」という名の集落もあります。

そしてこの土地出身の先祖を持つ者たちは楠木性を名乗り、かつて正成が戦場で負傷した際にヒエとキビを食べて病気になったことから、この土地ではヒエとキビが禁忌とされてきました。

 

関ヶ原の東首塚と西首塚

前近代で最大の戦争とされる関ヶ原の戦い。僅か半日で決着がついたとされる合戦でしたが、正確には分からないものの膨大な数の戦死者があったことが予想されています。

林羅山が著した『関ヶ原始末記』では死体の数は8千にも及んだとありますが、その亡骸を埋葬したという塚が関ヶ原には二箇所あり、それぞれ「東首塚」「西首塚」と呼ばれています。

地元では東首塚は首を検める必要があった名のある将や東軍の兵士を、西首塚は雑兵や首のない胴体と西軍兵士を埋葬した場所だと言い伝えられてきました。

関ヶ原駅のすぐ西にある東首塚には椋と椎の木が植えられており、明治39年に建てられた「関ヶ原合戦戦死者首塚」と刻んだ石柱があります。

そしてそこから南西に300m程の地点に千手観音と馬頭観音、無数の小さな五輪塔が置かれた場所があり、同じく明治39年に建てられた「関ヶ原合戦戦死者胴塚」という標柱があります。

これら2つの塚は徳川家康が関ヶ原の領主であった竹中重門に命じて築かせたとされていますが、それを示す文献は残っていません。

しかし関ヶ原の古戦場にて「御陣場野」として現在は四方を土塁で囲まれた場所で、徳川家康が敵将の首実検を行ったという記録は残っており、ここから家康が首塚を建てたという話が生まれたと推測されています。

引用元:https://sekigaharamap.com/

現在関ヶ原古戦場には関ヶ原ウォーランドという関ヶ原の合戦を模した人形を展示した資料館もあり、観光地として知られるようになっていますが、多くの戦死者があった土地であるためか「甲冑を着た武者の霊が見える」といった噂が絶えず、岐阜県を代表する心霊スポットともされています。

 

千人塚

引用元:https://www.city.kurashiki.okayama.jp/

正確には首塚ではないのですが、首塚以上に祟りの話が多く残されているのが災害や戦争での死者を多数埋葬している「千人塚」です。

千人塚は全国で105例が確認されており、この呼び名は千人を超す死者の遺体を埋葬していることに由来すると考えられています。

例えば大阪市の北東、淀川の左岸にある千人塚は昭和20年6月7日に行われたアメリカ軍による3度目の大阪大空襲で亡くなった住民を慰霊するものであり、戦死者のうち千数百人の遺体が淀川の河川敷に集められて被災家屋の廃材に火をつけたもので荼毘に付されたうえでそのまま同地に埋葬されたと言われています。

他にも第二次対戦時の千人塚として原爆による被害者を埋葬した広島市似島の千人塚がありますが、この2つの塚は近隣の住民であった人々が戦死し、それを戦禍を免れた住民ができる限りの供養をしたという点で他の103例の千人塚とは大きく異なっているのです。

他の千人塚は合戦に駆り出された大量の人々が縁もゆかりもない土地で戦死したうえ、故郷に帰されることなく埋葬されたものばかりです。そのため住民から忌避されることが多く、千人塚と祟りはセットになっていることが多いとされます。

例えば長野県飯島町にある千人塚には、この付近で草刈りをして刀、鍔、やじりを拾うと間歇熱に罹る、村一帯に悪病が流行った際に巫女から戦死者の祟りだと告げられたといった伝承があり、長崎県諫早市にある千人塚では昭和初期に付近で病人や怪我人が続出し、塚の石碑を建立したら祟りが収まったという話が残っています。

このように不特定多数の遺体をまとめて埋葬しているうえ、土地の住民との関係性も薄くある種「厄介な存在」として扱われてきた千人塚には暗い話がつきまとい、土地から浮いているせいもあって畏怖されるケースが多く見られます。

 

まとめ

首塚や千人塚にまつわる祟りや怨霊譚は、その塚の主に対して人々が憐憫の情を抱いた場合に誕生するとも言われています。

非業の戦死を遂げた場合でも首が家族や家臣の元に帰されて生地で埋葬されれば、後世の人々はその人物の塚を史跡として鑑賞します。

しかし将門のようにさらし首にされたり、千人塚のように全く縁故の無い土地で埋葬された人物に対しては、「こんな最期で浮かばれない」「口惜しいだろう」と心を寄せ、「祟っても仕方がない」という考えからその地で起きたマイナスの出来事を首塚の祟りに結びつけると指摘されているのです。

この考えに立つと首塚の祟りは単なる怪奇譚ではなく、私達日本人の死生観や、敗者に寄り添いたいという思いが現れているとも言えるでしょう。



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