1400年代の後半から始まった日本の戦国時代。今の日本の暮らしからは想像し難いですが、この時代、戦いは厄災ではなく日常として存在するものでした。
群雄割拠の戦国時代において、誰が最強であったのかということに思いを馳せたことがある方も少なくないかと思います。
戦歴だけが強さとは限らないため、誰が最強だったのかというのは非常に難しい話ですが、個人の総合力で最強に相応しいと思われる戦国武将を出生年順に8名紹介していきます。
戦国最強の甲斐の虎・武田信玄
武田信玄(1512年~1573年)は、甲斐(現在の山梨県)出身の武将です。戦国最強と謳われた「武田の騎馬隊」を率いて戦い、信長や家康を恐れさせ、甲斐の虎と呼ばれた信玄。
信玄は単に強いだけではなく、人望や知性も併せ持った知将としての一面も持っていました。
信玄は、父の信虎が甲斐を統一した前年に誕生しました。幼いころから賢く、頭角を現していた信玄を信虎は嫌っており、武田家の次男であった信繫に家督を継がせようと考えていたそうです。
この父と子は相性が良くなかったようで、信玄も信虎のような乱暴な人間がいると内部に問題が起こると考え、家臣たちと反乱を起こして信虎を追放、これにより21歳で武田家の当主となりました。
一見冷酷に見える行為ですが、信玄は信虎を殺害したわけではなく、駿河に追放したものの十分に生活できるだけの金子を毎年送っており、これは親兄弟であっても殺しあうことが珍しくなかった戦国時代において、異例の恩情といえます。
信玄は非常に合理的な考え方をする人物で、重大な決断をする時には必ず家臣を集めて意見を求める「合議制」を採用したと言います。武田24将という24人の家臣団をつくり、決選前には必ず集まって緻密な戦略を立てたと言います。このために武田軍は一糸乱れぬ戦いを展開できたのですが、その片鱗は家督を継ぐ時から見られていたというわけです。
また、父とは不仲であった信玄ですが、弟達とは仲が良く、弟の信繫と信廉は信玄が党首となった後の武田家を支えたと言います。特に信繫は武田軍のナンバー2として生涯信玄を支え、骨格が似ていたことから信玄の影武者を務めたともされます。
信玄の領土であった甲斐は石高があまり高くなかったため、領土を拡大する必要があったのですが、忍者を使って事前に情報を集め、緻密に戦略を立ててから戦いを挑んだために負け知らずとして知られるようになり、信濃、諏訪と領土を広げながらも、家臣の疲弊を最小限に食い止めたとされます。
信玄の有名な言葉に「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という言葉があります。これは信頼できる人の集まりは頑丈な城に等しく、情けは人の心を動かして味方を作るが、恨みは敵を作るという意味です。
これは信玄が生涯にわたって信条とした言葉で、彼の生き方そのものともいえるでしょう。
信玄は生涯、70回の合戦に出撃しているのですが、情報戦で無血開城に成功したことも複数あり、実は武力での全面戦争をしたことはあまり多くありません。
また、ライバルとされる上杉謙信との「川中島の戦い(1553年~1564年)」も、約12年に渡って続いたうえに5回の戦いが繰り広げられたものの、信玄と謙信が正面衝突したのは1度だけでした。霧の中で一騎打ちをしたという2人の猛将は、この時は謙信の先制攻撃を信玄の軍配が防ぎ、決着がつくには至りませんでした。
謙信との決着がつかないまま、1570年に信長の天下統一を阻止するために京都に入った信玄でしたが、その最中に病状が悪化。信長と同盟を組んでいた家康軍を撃退することに成功したものの、1573年に享年52歳で駒場で病死しています。
信玄は自分の湯治のため、そして傷を負った兵士や馬を癒すために各地に「隠し湯」を持っていました。これは「信玄の隠し湯」として、現在も湯治場として愛されています。
戦の神様・上杉謙信
上杉謙信(1530年~1578年)は、越後(現在の新潟県)出身の武将です。もともとは上杉家を補佐していた長尾家に誕生しましたが、29歳の時にその力量を買われて上杉家を相続することになりました。
謙信は長尾為景の末男として誕生しました。家督は長男の晴景が継ぐことになっていたため、信玄は7歳で寺に入って僧侶になる修行を開始します。
しかし、寺で兵法を学ぶようになると夢中になり、寺を出る際には「この子は僧侶には向かない」という旨の手紙を持たされたと言います。その後、14歳で元服した謙信は「長尾景虎」と名乗り、栃尾城を任せられます。
しかし、父が亡き後に新当主となった長子の晴景には武将としての才覚が無く、長尾家は周囲から侮られるようになり、景虎(謙信)の城もしょせん僧侶が守っている城と下に見られて、周辺の豪族たちから攻め込まれます。景虎はこれを見事に撃退し、名を上げたのでした。
その後も兄に代わって謀反を起こした黒田秀忠を討つなどの活躍をみせた景虎を晴景に代わって当主にしようという動きがあり、1548年に19歳で晴景と養子縁組をしたうえで長尾家を相続、長尾家の当主となります。
戦国時代の武将たちは、皆自分の一族のためや、自分の野心のために戦っていましたが、謙信は少し変わった人物であり、自分に助けを求めてきた人物のために戦う武将でした。
生涯のライバルとされる武田信玄との衝突も、謙信が望んだものではなく、隣国の信濃に信玄が攻め入ってきた際に信濃の領主が謙信に助けを求めてきたため、それに応じただけというきっかけでした。
そして、後に上杉家の家督を継いだ際も、自らの野心ではなく北条家の制圧に苦しんでいた上杉家を助けるため、上杉憲政に要請されてのものだったと言います。
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家臣の意見を大切にした信玄と対照的に、謙信は気難しい一面があり、戦いの作戦は1人でこもって考え、その閃きは天才的であったと言います。
特に謙信が得意とした戦術は「車かがりの陣」というもので、謙信を中心として車の輪のように放射状に陣を配置するというものです。そして、回りながら攻撃を仕掛け、前にいた隊が退くと次の隊が前に出ることを繰り返し、絶え間なく敵を攻撃できたとされます。
頼られると断れない性格をしていたことから、他の武将のために北条氏や信玄、信長といった列強と死闘を広げた謙信ですが、1587年に享年49歳で春日山城で倒れて永眠。死因は脳卒中と考えられています。
謙信は武将の中で一番の大酒飲みであったとされ、どんぶりで酒を飲んでいたとも言われています。1人で静かに飲むことが多かったそうで、酒を飲まないと手が震えるというようなアルコール中毒の症状も出ていたのだとか。この辺の事情も、脳卒中で突然死を迎えたことと関係があったのかもしれません。
生涯独身を貫いた謙信に実子がおらず、養子の景虎と景勝のどちらかが家督を継ぐこととなりましたが、戦前に謙信が遺言を残していなかったこともあり内乱が起こり、弱体化したところを織田家に攻め入られて、謙信亡き後の上杉家は滅亡寸前まで力をなくしてしまいました。
内政に優れた最強武将・織田信長
織田信長(1534年~1582年)は、尾張(現在の愛知県)出身の武将です。言わずと知れた天下統一を目指して駆け抜けた日本史上に残る名将ですが、信長は戦術に長けただけではなく、経済政策などにも力を入れ、政治家としても高い能力を持っていました。
織田信長は織田信秀の三男として誕生しました。母親が正室であったことから、織田家の家督を継ぐ運命にありましたが、良く知られるように幼いころから奇抜な言動が多く、変わり者であった信長は「うつけ者」と呼ばれていました。
また、使用人であろうと腹心であろうと、気に入らないことがあれば斬り捨てるという気性の荒さで知られる信長ですが、乳児の頃からこの気性は見られていたようで、何人もの乳母の乳首を噛みちぎってきたと言います。
1551年に父の信秀が急死したことによって18歳で当主となった信長は、26歳で尾張を統一。そしてその翌年の1560年には「桶狭間の戦い」で「海道一の弓取り」と称された今川義元を退けることに成功しています。
この時、京都入りを目指して攻め入ってきた今川軍は2万5000人、迎え撃つ信長軍は3000人程度でした。そのため、誰もが義元の勝利を確信しましたが、敵の本陣がある桶狭間に狙いを絞って奇襲をかけました。この時、幸運にも大雨が降って視界が悪くなったこともあり、信長は義元の首を取ることに成功したのです。
この勝利をきっかけに信長の勢力は急成長していきました。ちなみに信長は、多勢に無勢と大騒ぎになる家臣たちをよそに、昼寝をしたり舞を踊ったりと全く動じる様子が見られなかったと言います。
その後信長は34歳で美濃を支配、40歳の時に足利義満を追放して室町幕府を滅ぼしました。そして1575年の「長篠の戦い」では武田軍に勝って、信長の象徴となる安土城を建てました。
これまで兵士といっても普段は農民で、合戦時だけ武器を取るのが普通でした。しかし信長は武士と農民を分け、訓練された集団をつくりました。
また、才能のある者は身分に関係なく引き立てて出世させ、能力の高いものだけを集めるようにしたのです。また、少年時代から鉄砲の術を学んでいた信長は、戦いを有利に進めるには鉄砲が必要であると考え、早くから買い集めていたと言います。
鉄砲は強力な武器でしたが、弾を込めるのに時間が掛かるという難点があったため、信長は「三段がまえ」という戦法を編み出しました。
これは、3列に並んだ鉄砲隊が交代で前に出て攻撃をするという方法で、これによって時間が空くことなく攻撃し続けることができたのです。
また、信長は経済政策にも力を入れており、その政策の1つとして「楽市楽座の法」の発令が挙げられます。それまでは商人組合の者しか市で商売ができなかったものを、場所代さえ払えば誰でも自由に商売ができるように変更したのです。おかげで城下町は大変賑わい、潤いました。
このように内政にも優れた信長は、市民や弱い者に対しては温情的な面を見せることもあったとされますが、広く知られているように部下に対して冷酷であったことから家内に敵が多く、1582年に明智光秀の謀反により、自ら建物に火を放って切腹しています。享年49歳でした。
光秀は「本能寺の変」の一週間前の連歌の回で「時は今 天が下知る 五月かな」という歌を詠んでいます。この歌の「時」は光秀の出身である「土岐」、「天が下知る」は「天下を取る」ことを意味し、謀反を示す意思表示として読んだのではないか?という考察されています。
策にも優れた知将・島津義弘
島津義弘(1535年~1619年)は、薩摩(現在の鹿児島県)出身の武将です。「鬼島津」とも呼ばれた猛将で、祖父の島津忠良からは「勇武英略をもって他に傑出する」と称えられた程、武力にも知力にも優れたことで知られます。
1554年に初陣を飾った後、兄の義久が家督を継いだ後はこれを補佐するようになり、1572年の木崎原の戦いでは3000の敵兵に対して300の兵で奇襲をかけ、見事に勝利を収めています。
そして1587年には根白坂の戦いで豊臣秀吉軍と戦い、豊臣軍8万、島津軍3万5000という圧倒的な戦力の差を前に義弘自ら敵軍に斬り込んで奮闘したとされますが、敗北。この後は羽柴の名字と豊臣の本姓を与えられて、島津家は豊臣秀吉の配下となりました。
豊臣家の配下に加わった後の義弘の活躍として知られるのが「泗川の戦い」です。秀吉の朝鮮出兵により朝鮮の泗川城を任されていた島津義弘・忠恒の元に、明と朝鮮の連合軍数万人が攻め込んできたことにより勃発した戦いで、1598年に起こりました。
この戦いで義弘は僅か6000の兵で5倍以上の兵を迎え撃ち、鉄砲を用いて敵軍を攪乱させた後に義弘・忠恒親子が討って出て、明と朝鮮の連合軍を蹴散らしたのです。この時の敗戦が原因となり、明も朝鮮も島津軍を「石蔓子(シーマンツー)」と呼び、恐れるようになったと言います。
また、秀吉の死後に家康軍と秀吉に忠誠を誓った石田三成軍が激突したことで起こった関ケ原の戦いでは、島津軍は西軍(三成軍)について敗戦しましたが、見事に敵中突破を果たして薩摩への退却に成功しました。
この時の戦法は義弘の甥・豊久や家老のいる一隊が犠牲となって全滅するまで戦い、大将を逃がすという壮絶なもので「島津の退き口」と呼ばれました。
このように戦局に応じて様々な策略を立てた義弘は、医術知識にも長けていたと言います。外科医並みの知識を持ち、戦場では負傷者の診察に自ら出向くことも多かったとそうです。
また、褒め上手で若い家臣には「父親に似て勇敢そうだ」といったように、一番本人が喜ぶ言葉をかけることで士気を高めたと言います。そのため家臣に非常に慕われており、享年85歳で義弘が死去した際には、13名もの家臣が後を追いました。
徳川四天王・本多忠勝
本多忠勝(1548年~1610年)は、三河(現在の愛知県)出身の武将です。徳川家につかえる最古参の武将であった本多氏の末裔として生まれ、幼少時から徳川家に仕えていました。
そんな忠勝の初陣は、僅か13歳の時でした。この戦いの後に元服した忠勝は、14歳の時に叔父の忠真とともに出兵し、ここで初めて敵の首をあげています。
その後、50回以上の合戦に参加したとされますが、一度も傷を負うことが無かったという逸話を持つほどの強者です。かすり傷1つ負うことがなかったという伝承が後世に残されるほど、突出した強さを誇っていました。
徳川・織田の連合軍と、浅井・朝倉の連合軍が激突した姉川の戦いでは、朝倉軍1万人に対して単騎駆けを行って徳川軍の士気を上げるのに成功し、その後の武田軍との戦いの中でも、武田四天王と呼ばれる信玄の腹心であった馬場信春の軍を相手に奮闘を見せ、無事に戦場から家康を逃がすなどの功績を上げたことで知られます。
このような忠一の働きは周囲からも高く評価され、織田信長は「花も実も兼ね備えた勇士」、豊臣秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」と称したと言います。
また、何度となく刃を合わせてきた武田信玄の側近からも「家康に過ぎたるものは2つあり、唐の兜に本多平八(忠勝の通称)」と称され、家康にはもったいない名将だと称賛されたていました。
引用元:http://www.sanobi.or.jp/
本多忠勝は、身に着ける武具にもこだわるがあったと言い、鎧や兜などは軽く、動きやすいものを好んだとされます。また、彼が武器としていたのは、天下三名槍の一つに数えられる「蜻蛉切」です。
刃長43.8cmという長大さを誇るこの槍は、刃先にとまった蜻蛉の羽さえ斬ることができるという逸話を持つほど、切れ味の優れた逸品でした。現在は静岡県三島市にある佐野美術館に収蔵されています。
最期は病により享年63歳で命を落とした本多忠勝はでしたが、亡くなる前に小刀で指に傷を負い「本多忠勝も傷を負ったら終いだな」と呟き、その直後に永眠したという話も残されています。
さすらいの一匹狼・可児才三
可児才三(1554年~1631年)は、美濃(現在の岐阜県)出身の武将です。領土を持つことが無く、大名となることはなかった才三ですが傭兵として多数の主君のもとを渡り歩き、戦国最強とも呼ばれました。
引用元:http://minor-bushou.hatenablog.com/
可児才三は稀代の槍の名手として知られ、「鬼柴田」として恐れられた織田信長の重臣・柴田勝家や明智光秀、足軽時代からの秀吉の盟友であった前田利家と、名のある大名の元を転々としました。
才三には「笹の才三」という2つ名があり、これは弟の蘭丸と共に信長に仕えた森長可の元にいた時のエピソードによるものです。戦に出た才三は、16人もの敵の首を取り、全てを持って帰ることもできなかったため、取り合えず3個だけ手にして城に戻ったと言います。
当時は持ち帰った敵の首の数によって、手柄が判断されていたのですが、長可に16人を討ったという旨を報告したところ、首の数が足りないために嘘をついていると訝しがられてしまいます。そこで才三は、残してきた13の首の口には笹の葉を含ませてきたので、確認して欲しいと長可に言い、実際に戦場に戻ると笹を咥えた首が13落ちていたのです。
この時に行動から才三は「笹の才三」と呼ばれて、16もの首を取ったというエピソードとともに笹を咥えさせて「自分の獲物」という証拠を残すという冷静な判断力を称賛されるようになりました。
ちなみに、笹を咥えさせるという行為は「酒を口に含ませる」ことから来ている行為とされ、討取った相手への才三の手向けであったとも言われています。
また、才三は「関ヶ原の戦い」において一番首を上げた武将とされます。この時、才三は生涯にわたって仕えることとなる福島正則の元にいたのですが、抜け駆けを禁じるという軍則を破ったことから合戦への参加を禁じられ、謹慎処分を命じられていました。
しかし、暇を持て余した才三は見張りの目をかいくぐって勝手に戦場に赴いていたのです。このことは後に才三の噂を聞いていた徳川家康が、今回の戦はどうだったのか才三に尋ねたところ「謹慎を命じられましたが、抜け出して17の首を取りました」と答えたことで発覚しました。実際に戦場からは17の笹の葉を咥えた首が出てきたことから、家康に称えられたと言います。
生涯現役として馬を乗り回した才三ですが、関ケ原の戦い以降は出陣する回数も減っていきました。そして、かねてから自分を愛宕権現の化身だと称していた才三は「俺は権現の縁日(6月24日)に死ぬ」と予言していたと言います。
そして1613年の6月24日、甲冑を着込んだ才三は畳の上にどっかりと腰を下ろし、そのまま息絶えたとされます。予言通りに権現の縁日、享年60歳でした。
日本一のつわもの・真田幸村
真田幸村(1567年~1615年)は、信濃(現在の長野県)出身の武将です。本名は真田信繫と言い、10代後半から20代にかけては滝川一益ら織田信長軍の人質として過ごしていたことから、戦績を上げることができませんでした。
引用元:https://www.art-kensin.jp/
しかし、1614年から1615年にかけての大阪冬の陣・夏の陣の際に出陣して、一気にその勇名を轟かせました。冬の陣では大阪城に出城「真田丸」を築き、徳川家の兵士を数多く討取りました。
そして夏の陣では、不利な状況を押して徳川軍の本陣に攻め入り、あと一歩というところまで家康を追い詰めました。この時、あまりの真田軍の勢いに、家康は2度も自害を試みようとしたとさえ言われています。
最終的には家康軍に援軍が到着したことにより、真田軍は退却を余儀なくされ、その最中に幸村は戦死したとされます。しかし、戦のあとに幸村の首とされるものが多数上がっており、かつて真田家に仕えたという人物の証言から、その中の1つが本人のものと断定されたものの、本当に幸村が死んだのかどうかは分かっていません。
真田幸村は名を上げた武将の割に不明な点が多いのですが、そのことが魅力の一つとされており、立川文庫の『真田十勇士』などの創作物に登場することも数多く見られます。
引用元:https://www.travel.co.jp/
愛槍が何だったのかということも不明で、愛刀はおそらく村正であったというように、武器に関しての記録も少ない幸村ですが、真田軍の装具として真っ赤な鎧が採用されていたことは有名です。
部隊の士気を高めるために全員が同じ赤い鎧を身につけたとされ、これは「真田の赤備え」として、戦場でも大変に目を引いたとされます。
また、真田家の家紋は六文銭であり、これは三途の川の渡し賃に由来し、死ぬ準備はできているという覚悟の表れであったとされます。
1つの戦いで華々しく咲いて散る、そのような幸村本人の生き様を表すような家紋と言えるでしょう。
東国最強の武将・立花宗茂
立花宗茂(1567年~1642年)は、筑前(現在の福岡県)出身の武将です。大友氏の重臣であった吉弘鎮理(後の高橋紹運)の長男として生まれ、後に同じく大友氏に仕えた立花道雪の養子となりました。
道雪の養子となった1581年に宗茂は初陣を飾り、実父の紹運と養父の道雪とともに出陣するようになり敵首をあげてきました。道雪が出陣している折には立花山城を守り、8000人もの敵兵が攻めてきた際にも、1000名の兵を率いて奇襲や火計を用いて敵を攪乱して同士討ちを誘い、見事に城を守り切ったと言います。
その後1585年に養父の道雪、1586年に実父の紹運を立て続けに失くした宗茂は、1686年の島津軍との戦いの後に豊臣秀吉の配下になります。そして秀吉の九州平定に貢献したことで、立花家は大友氏から独立した大名の地位を獲得し、秀吉からも「九州の逸物」という賛辞を贈られました。
1600年の関ケ原の戦いでは、徳川家康の誘いを断って西軍にとどまりました。そして関ケ原の戦いで西軍が敗戦した後、九州へ戻る道中で実父の紹運の仇であった島津義弘と遭遇、同じく西軍で善戦したものの大きく兵を欠いていた義弘の軍を見た宗茂の家臣は「今こそ義弘の首を取るべきだ」と勢いづきましたが、宗茂はこれを卑怯者のすることと一蹴し、義弘へ護衛を申し出たと言います。
この申し出に心を動かされた義弘は、九州に戻った後、宗茂の籠城した柳川城が東軍に襲われた際には援軍を送ったとされます。残念なことに援軍の到着は間に合わなかったのですが、このエピソードは、宗茂、義弘の両勇の人柄を感じさせるものとして語り継がれています。
関ヶ原での敗戦が原因で領土を没収されて浪人となってしまった宗茂。一説には食べるものにも困るほどの極貧生活を強いられたとも言われ、加藤清正や本多忠勝の世話を受けながら食いつないでいたとも言われています。
しかし、1603年にはかねてから宗茂の実力を高く評価していた徳川家康により再び大名に取り立てられ、大阪夏の陣・冬の陣に参加。徳川秀忠の参謀として徳川家勝利に導いた功績が認められ、再び柳川城の城主として返り咲くことに成功しました。
関ケ原の戦いで西軍についた武将の中で、領地を回復できたのは宗茂ただ一人と言われています。かつては敵対関係にあったにも関わらず、ここまで家康に優遇されたという事実からも、宗茂の強さがうかがえるでしょう。
齢70歳を過ぎてからも島原の乱に参加し「武神再来」と謳われるなど、生涯に渡って数々の戦に参加した宗茂。享年76歳で永眠した後は、柳川城内の三柱神社に祭神として祀られています。
まとめ
歴史にifは禁物ですが、この他にももう少し早く生まれていれば天下を取れていたと称される伊達政宗や、戦国最強の水軍を率いた海軍大名・九鬼義孝、元忍者とも言われる鉄砲の名手・滝川一益など、強豪で知られる武将は多数存在します。
また、逆に戦国最弱と呼ばれる小田氏治などのエピドートにも面白いものが多くあります。武将たちの戦歴だけではなく、好んだ食べ物や服装などについても調べてみると、生きた人間として戦国武将が身近に感じられて興味深いですよ。