世界中に存在するUMAの中でも最も実在する可能性が高いと言われている雪男・イエティ。国内、海外を問わずイエティ追跡のTV番組も数多く放映されていますが、実際は報道された以外にも数多くの探検家たちが雪男捜索に乗り出し、その中には著名な探検家も含まれています。
以下にイエティの目撃証言やその信ぴょう性についての考察を紹介するとともに、現在イエティについて判明している事柄についてお伝えしていきます。
イエティの基本情報
イエティが目撃されているのはヒマラヤの山岳地帯で、体長4.5m程度の大型のチュッテー、体長2.4m程度の中型のミッテー、体長1.5m程度のテルマーの3種類が存在するともいわれています。
発見された足型から推測される足のサイズは24.5cm~45cm。3種とも直立歩行で単独で行動するものと考えられており、イエテイというと真っ白な長い被毛を持つ印象がありますが、目撃情報によると体毛は赤褐色か暗褐色で角ばった頭部を持ち、筋肉質な体躯で腕は膝に達するほどの長さであるとされています。
名前の由来はネパールのシェルパ属の言葉で“岩”を指す“yah”と動物を指す“ti”を組み合わせたものとなっており、古くからヒマラヤ付近では姿を見るのは不幸の前兆として恐れられていました。
イエティ目撃の歴史
古くからイエティの目撃情報は数多くあり、最も古い公的な目撃証言は1832年にネパールの英国大使ブライアン・ホジソンが論文の中に長毛の猿のような生物を目撃した、と記していることが挙げられます。そしてその後、19世紀から20世紀にかけてイエティの目撃情報が相次ぐようになっていってのです。
以下に数多あるイエティの目撃証言の中から世界を騒がせた代表的なものを時系列順に紹介していきます。
1889年 西洋人による初の目撃が報告される
ネパールやチベットといった現地の人間以外にイエティの存在が知られるようになったのは1887年のことです。イギリス陸軍中尉、L・オースティン・ウォーデルがインドのシッキム州の標高約5200m地点で異様な足跡を発見。それをかねてからネパールで存在が囁かれていたイエティのものではないかと発表したことが切っ掛けとなり、その存在を信じる人が増えていったといいます。
しかしウォーデルは著書『among the Hymalayas』の中で、シェルパ属の間で存在が信じられている毛深い野獣の正体は巨大な黄色の熊であると自身の見解を述べています。
ちなみにこの頃はまだ雪男という呼び名はされておらず、この未知の生物はチベット語で『メティ・カンミ』(忌まわしい雪男)と呼ばれており、後にこれを英訳して『abominable snowman』と呼ばれるようになったされます。
1941年 脱走兵が遭遇した巨大な獣
1941年、6人の仲間とともにシベリアの収容所を脱出したポーランドの陸軍将校スラヴォミール・ラウイッツは、徒歩でシベリアを越えてゴビ砂漠をわたり、ヒマラヤを登ってインドへと逃げるという途方もなく過酷な旅路の中にありました。
そしてその旅路の終盤、ヒマラヤを越えて山を下りている最中に2頭のイエティと思われる巨大な生物に遭遇しているのです。ラウイッツは後に著書『脱出記 シベリヤからインドまで歩いた男たち』の中で、2頭の獣は信じられないほど巨大で2足歩行であったと述べています。
更に同書内ではその外見を
・耳は頭部に張り付くように付いていた
・撫で肩で強靭な筋肉を持っていた
・両腕は長く、手首が膝に届いていた
・全身に赤褐色の毛が密集して生え、光の当たり方で灰色のようにも見えた
・横から見ると後頭部が頭頂から垂直に肩へとつながっていた
と詳しく記載しており、何故ここまで詳細に特徴を覚えていたかというと2時間以上もイエティと思われる生物の観察を続けていたからだそうです。
とはいえ物珍しさで眺めていたわけではなく、どうしても下山のためにその道を通りたかったために巨大な獣が何処かへ行くのを待っていただけで、最終的に動く様子がなかったことからラウイッツ達は悪路として避けていた迂回ルートを使い、これが原因で1人の仲間が命を落とすこととなりました。
当時収容所から出てきたばかりのラウイッツはイエティの存在を知らず、後に学術調査隊がヒマラヤへと雪男調査で派遣されるというニュースを見て初めて自分達が目撃したのはこれだったのではないかと考えたと述べています。
1951年 鮮明な足跡の写真が公開される
引用:https://www.dailymail.co.uk
1950年代に入りヒマラヤ登山が本格化するとこれまで立ち入ることのなかった区域にも続々と雪男捜索隊が訪れるようになり、目撃も頻繁に報告されるようになっていきました。
そして中でも世界中の注目を浴びたのが、イギリスの山岳探検家エリック・シプトンが撮影したイエティのものと思われる巨大な足跡です。
シプトンはイギリスにおけるエベレスト登山の礎を築いたとも称される有名な探検家で、1930年代に既に4回にわたってエベレストの北面を制覇していました。そして1951年、これまでほとんど知られていなかったエベレストの南面のアタックに挑戦することになったのです。
20世紀の前半、ネパール政府は鎖国体制をとって諸外国との関りを絶っていたため、エベレストへは北のチベット側からしか接近することができませんでした。
しかし1950年に中国共産党がチベットに侵攻すると北面のルートも閉鎖され、イギリス政府がネパールを説得した結果、実現したのが51年のシプトンの探索だったのです。
そして彼はネパール側のエベレスト偵察を終えた後、西側のガウリサンカール山塊で点々と続く奇妙な足跡を発見します。シプトンの著作『未踏の山河』によると、土地の人間は整備された道以外を通って氷河の上部にやってくることはないため不審に思ったところ、ガイドとして同行していたシェルパにイエティのものだと教えられたあります。
最初はシェルパの話に懐疑的であったシプトンですが、進むにつれて鮮明になっていく足跡はどう見ても類人猿、もしくはそれに近い生物のもので、彼はこの足跡の持ち主が未知の生物であると信じて写真を撮影し、世界に向けて発表しました。
1954年 英国デイリー・メールの探索隊
シプトンの写真を切っ掛けに雪男ブームはいよいよ加熱していき、多くの探検家や捜索チームがヒマラヤを目指すようになっていきました。そして、その中でも規模が大きかったのが1954年に編成されたイギリスの大手タブロイド紙、デイリー・メールの捜索隊です。
生物学や人類学の専門家も名を連ねたというこの遠征隊は、イエティの姿を捉えることはできなかったもののネパールのパンボチェ寺院やクムジュン寺院に古くから伝わるイエティの頭皮や手について報道しました。
後にこの頭皮はカモシカの皮で、手も人骨であったことが判明するのですが、この時の調査でデイリー・メールはこの他にも後のイエティの探索に影響を及ぼすある行為をしたのです。
シプトンの写真を切っ掛けに編成されたデイリー・メールの探索隊はイエティの外見を足跡から推測し、その想像図をはがき大の紙に印刷してエベレスト麓のクンブ地方に大量にばらまいたといいます。
この時に描かれたイエティの姿は腕が長く、ゴリラのように筋肉が発達し、不気味な笑みを浮かべながら2足歩行で歩く巨大な生物の姿で、この絵が後の人々が共通で持つイエティ像の大元になったと考えられているのです。
1975年 冒険家・鈴木紀夫による5頭の謎の生物発見
1974年、フィリピンのルバング島のジャングルにこもっていた残留日本兵の小野田寛郎を発見、説得して日本に連れ帰るという大仕事をしたことにより放浪の冒険家であった鈴木紀夫は一躍国民的英雄となりました。
そしてその翌年の1975年の夏に鈴木は雪男捜索に乗り出し、5頭のイエティを見たといいます。雪男捜索といっても当初鈴木はイエティの存在を信じていなかったようで、女性のヌード写真を手に「これで雪男をおびき寄せてやる」と笑っていたほどだといいます。
そのため当初はヒマラヤに着いても半ば観光のような捜索しかしていなかったそうですが、イエティを見たというガイドを伴って探索に出た際、赤褐色の大型の類人猿のような生物1頭と、薄茶色の少し小型の同様の生物2頭、そして真っ白な体毛の2足歩行の小さな生物を2頭、合計5頭の謎の生物を目撃したのです。
鈴木は慌ててシャッターを切りました。この時使用していたのは小野田を写したのと同じ愛用のカメラであったといいます。そして8ミリフィルムを使って動画も撮影したそうです。しかし、後に現像してみると写っていたのは真っ白な雪原と黒い点だけでした。
この時から鈴木の人生は一変しイエティを見たコーナボン谷へ通い詰めて雪男捜索にのめりこむようになり、1986年9月に最期の雪男捜索の旅に出て雪崩に巻き込まれて死亡。最初にイエティらしき生物を目撃してから12年もの間、捜索を続けたものの成果は得られなかったといいます。
イエティをめぐる情報の信憑性
日本人冒険家や登山家の中には、鈴木紀夫同様にイエティを見たという経験を持つ人が数名います。その中には世界で初めてエベレスト登頂に成功した田部井淳子や、新田次郎の小説『栄光の岩壁』のモデルにもなった芳野満彦など著名な人物も存在し、彼らの目撃談を見る限りヒマラヤには未知の生物がいるのではないか?という気持ちにさせられます。
しかし一方でイエティをめぐる情報の中には胡散臭いものや、後年に作られた情報であったと分かったものも多数存在するのです。以下に、イエティの情報の中から偽りであったものや否定的な考察を紹介していきます。
シプトンの写真に対する考察
上でも紹介した1951年に発表されたシプトンの足跡の写真ですが、以前より懐疑的な意見も多数寄せられています。シェルパ族の足裏はヤクを放牧したり狩りに出る時に凍傷にならずに裸足で歩けるよう、親指が肥大化しているという独特な進化を遂げており、写真のものは彼らの足型に酷似しているというのです。
また動物の中には自分が前足で歩いた足跡を正確に後ろ足でなぞりながら歩行する習性があるものも存在し、その足跡は写真のように一直線になります。日本に生息している動物の中ではキツネがこのような足跡を残すのですが、ヒマラヤに生息する動物でもユキヒョウが同じ習性を持ちます。
ユキヒョウは爪を隠すことができ、前足と後ろ足がずれて重なることで雪原に残す足跡は楕円形になり、上の写真のようなハート型の足型を残すことも珍しくありません。さらに、1950年当時は標高3500mから5000mあたりの高山域に野生のヤクが生息していたため、シプトン以外の捜索隊が発表したイエティの足跡の中にはヤクのものと思われる写真も存在したそうです。
1986年に撮影されたイエティの写真
引用:https://mundointrigante.com
1986年、イギリスのアンソニー・ウールドリッジがネパール西部のジョシマス付近の渓谷、標高3300m地点でイエティのものと思われる足跡を大量に発見。足跡を追って登っていくと、雪崩で塞がれた先にイエティが佇んでいたといいます。その時に撮影されたのが上の写真の枠内に写った影です。
これまでイエティの目撃報告は多くあったものの撮影されるのは足跡の写真ばかりであったため、ウールドリッジの写真は大きな話題を呼びました。しかし翌年1987年に同じ場所で撮影した写真にもこの影と全く同じものが写ったことから、この正体が生物ではなく岩であることが分かったのです。
1996年に撮影されたイエティの動画
1996年には初めてイエティが歩く姿が撮影され、イエティが実在する証拠として発表されました。しかし後にこの動画に登場する謎の生物はゴリラの着ぐるみを着た人間であり、偽物であることが判明しています。
ちなみに雪男と同じ大型の二足歩行のUMAというと北米のビッグフットが存在しますが、イエティに先駆けて1967年に北カリフォルニアで2人の男性がビッグフットの姿を8mフィルムに収め、公開しています。
この時はビッグフット肯定派が盛り上がりを見せる一方で着ぐるみを着た人間だと否定する声も多く上がり、批判の矛先は動画を撮った男性ではなくビッグフットの振りをする悪戯をした“誰か”に集中し、この悪ふざけをした犯人探しに躍起になる人が少なくなかったそうです。
そしてそのペテンの仕掛け人として批判を浴びたのがハリウッドの特殊効果アーティストの第一人者であるジョン・チェンバーズでした。なぜ彼が容疑者にされたかというと、この年にたまたま映画『猿の惑星』のための衣装制作の仕事をしていたからだといいます。
チェンバーズはこれを否定しましたが、1997年に映画監督のジョン・ランディスがチェンバーズがビッグフットの着ぐるみを作っていたことを暴露。チェンバーズはランディスの言葉を否定したまま2011年に亡くなっています。
イエティは金づるだった?
ヒマラヤに捜索隊が押し掛けるようになった1959年、アメリカでは雪男捜索にかかわる取り決めを定めたガイドラインを作成し、イエティを見つけても殺害してはいけないといったルールを定めました。またこれによると、イエティの生息地に入るためには料金を払うことが定められていたといいます。
更にネパール政府も雪男探索を目的にヒマラヤに入山する際には許可証を購入するように定めており、この価格は日本円で55,000円相当。他にもイエティをモチーフにした高級ホテルを建設したり、ブータンからイエティの保護区とされるカトマンドゥまで運航するエアラインを設けたりとネパールでは現在もイエティを元にしたビジネスが賑わいを見せています。
また1930年代からイエティは資金繰りに苦しんだ登山家や冒険家たちがスポンサーを見つけるための材料として利用されてきたとも考えられており、当時から雪男探索に出た冒険家の中には正体は熊だと確信していた人も多かったようです。
1951年にシプトンがイエティの足跡を撮影した際に同行していたマイケル・ウォードも、後年に来日した際に東京スポーツの取材に対して「雪男は絶対に存在する、自分は生涯をかけて雪男の捜索を行いたい」という趣旨のことを熱っぽく語り、1980年8月2日付の同紙にそのインタビュー内容が掲載されました。
しかし、シプトンの生涯を研究したピーター・スティールは著書『エリック・シプトン 山岳探検家・波乱の生涯』の中でウォードはシプトンの撮影した足型を人間にものだと考えていると述べており、イエティの存在を信じているというのはビジネス上の演技であったことがうかがえます。そしてこのように金儲けの道具としてヒマラヤに棲む謎の獣人を利用した人間は、20世紀から現在に至るまで数多く存在しました。
イエティの正体は何?
イエティの正体についてはこれまでも散々議論がなされ、現地の目撃者の話から2足歩行以外に腕の使い方が類人猿以外にはできないものと推測されたことから、30万年前に絶滅したとされる史上最大の大型類人猿、ギガントピテクスの生き残りではないかという説も根強く存在します。
また近年ではイエティのものとして保存されている体の一部をDNA解析する研究も行われていおり、その中でも代表的な研究結果を紹介します。
12万年前に存在したホッキョクグマの生き残り説
引用:https://newatlas.com
雪男の探索が本格的になった1950年代以降、イエティのものとされる体毛は数多く採取されてきました。日本でも1959年から60年にかけて雪男捜索に出た、東京大学医学部教授の小川鼎三や元多摩動物公園の園長の林寿太郎らによる捜索隊がイエティのものという獣の毛を持ち帰っており、現在も札幌大学に保管されています。
そして遂に2013年に、この数々の体毛のDNA鑑定がオックスフォード大学の人類遺伝学者、ブライアン・サイクスの研究チームによって行われたました。
サイクス率いる研究チームは50年前までの標本であればDNAを抽出できるという技術を確立し、過去に採取されたイエティの体毛と考えられていたものを30万位種以上の生物の遺伝子情報を保存しているデータベース『GEN BOOK』と照合し、その結果イエティの体毛とされていたものは人間を含む現生する動物の毛であったことが判明したのです。
しかし、1970年にインド北部のラダックから持ち帰った毛と2001年にブータンで入手したという毛からは奇妙な結果が出たといいます。これらのサンプルが持つDNA情報は12万年前に存在したホッキョクグマの化石から採取した情報と同じだったのです。
この結果からサイクスの研究チームはヒマラヤに太古のホッキョクグマの生き残り、もしくは生き残りと他種のクマの間に誕生した交雑種が存在しているのではないかと発表しました。
ヒマラヤのヒグマ説
2017年にイエティの体毛、皮膚、骨、糞とされてきたものをニューヨーク州立大学率いる研究チームが解析し、その結果が『英国王立協会紀要B』に掲載されました。
サンプルの中にはイタリアの山岳博物館に展示されているイエティのはく製から取ってきた歯や、宗教遺物として保管されているイエティの皮膚など本物と信じられていたものも含まれていました。
解析の結果、イエティの体の一部と考えられていたものはアジアクロクマやヒマラヤとチベットに生息するヒグマの亜種のものであることが判明しています。とはいえこの結果はイエティの存在を完全否定するものではなく、科学者たちも雪男伝説とは別にヒマラヤに生息する熊の生態を調べる上の資料として役立てるとも発表しています。
ロシアン・イエティ
イエティというとヒマラヤの高山域に生息するという印象が強くありますが、2011年にロシアで開かれた国際会議において西シベリアのケメロボ州にイエティが生息する確率は95%という発表がされ、日本のメディアでも大きく報道されました。このロシアのイエティは“アルマス”と呼ばれ、1850年には実際に雌のアルマスがコーカサス地方で罠にかかって捕獲されたとも言われています。
捕獲されたアルマスは“ザナ”と名付けられ、上の画像が似顔絵とされています。似顔絵からも見て取れるように原始的な外見のザナですが全身は赤褐色の体毛で覆われており、身体能力も人間のそれとは比較にならなかったそうで、50kgもの穀物を軽々と運んだ、馬よりも速く走ったとも言われているのです。
ザナ自身は1980年に亡くなっているのですが彼女はコーカサスの村人の男性との間に子を成しており、2015年にはザナの子孫と思われる6人の唾液と、既に亡くなって埋葬されていた彼女の息子の歯をオックスフォード大学の人類遺伝学者、ブライアン・サイクスがDNA解析しました。
その結果、ザナのルーツはなんとサハラ以南に居住するアフリカの民族と一致したのです。何故アフリカ民族の血を引くザナがコーカサスにいたのかは諸説あり、多毛症であった彼女が見世物として売り飛ばされた結果、脱走など何らかの理由で1人でロシアにたどり着いたのではないかというものや、アルマスの起源はアフリカにあるのではないかといったものが挙げられています。
またアルマスはネアンデルタール人の生き残りであるという説も存在し、ヒマラヤのイエティやアルマスといった各地で見られる二足歩行のUMAをヒト科の古代残存生物であると考えるロシアの雪男研究家、イーゴリ・ブルツェフが中心となって現在もロシアン・イエティについての調査が進められています。
まとめ
他のUMAと比べても類を見ないほど科学的な調査をされているイエティですが、DNA解析を行った科学者たちもその存在をはっきりと否定するような発言はしておらず、これは正体が何であれヒマラヤに未だ発見されていない新種の動物が存在している可能性は否定できないということなのでしょう。
女性登山家の田部井淳子はイエティを目撃したにもかかわらず、帰国後そのことを積極的に話すことはなかったといいます。このことを話すと高山病で幻を見たのだと決めつけられることが少なくなかったようです。
また雪男に憑りつかれて命を落とした冒険家の鈴木紀夫も雄弁な性格であったにもかかわらず、雪男の探索については妻以外の人物には明かさなかったそうです。そして鈴木の母親は彼が最期の探索に出るまで、命がけで幻のようなものを追い続ける息子を何度も説得したといいます。
彼らの見たものが何であったかは知る術もありませんが、今後イエティの正体が完全に解明された時、雪男伝説に振り回された人達にとって吉報となるような結果であって欲しいと思わずにはいられません。