近年は廃墟ブームだと言われています。
人が賑わう建物もいいですが、既に役割を終え、朽ちるのを待つというのもなかなか風情があるものです。
テレビ番組『クレイジージャーニー』などで廃墟のよさに気付いたという方も多いでしょう。
特に教会は神秘的な雰囲気を持った建物が風化し、植物が生い茂るなど独特の美しさを有しています。
今回は世界の廃墟となった教会を紹介します。
ゲーリー・メソジスト教会
引用元:https://www.chicagotribune.com/
ゲーリー・メソジスト教会は、アメリカ合衆国インディアナ州ゲーリーにある廃教会です。
1925年に建設され、教会としての施設のほかに「シーマンホール」と言われる9階建ての複合商業施設が建設されました。
シーマンホールには企業のオフィスや体育館、映画館などが作られました。
大恐慌の後はシーマンホールの一部をインディアナ大学へ貸し出しています。
元々ゲーリーという都市は製鉄会社であるUSスチールが、新たな工場を建設することで誕生した経緯があります。
そのためUSスチールの衰退がゲーリーや、ゲーリー・メソジスト教会にも大きな悪影響を与えました。
ゲーリー・メソジスト教会の信徒数は1950年代にピークを迎えましたが、1960年代にUSスチールの業績が悪化すると、会員の大半を占めていた白人の中流階級層が相次いで転居し、一気に数が減少します。
1973年には会員の数は全盛期の1/10以下である320人にまで減少、1975年に閉鎖されました。
USスチールの業績悪化と共にゲーリーは治安が悪化し、アメリカでも屈指の犯罪都市となっています。
ゲーリー・メソジスト教会の廃墟も幾度となく泥棒に遭っているほか、1997年には大規模火災が発生しており、現在は修復が困難なまま放置されています。
シェルドン旧教会跡
引用元:https://southcarolinalowcountry.com/
シェルドン旧教会跡はアメリカ合衆国サウスカロライナ州のビューフォート郡にある廃教会です。
元々1745年から1753年の間にイギリス植民地時代の教区教会として建設され、1779年に独立戦争によって焼失しました。
1826年に再建されましたが、1865年に南北戦争によって再び焼失しています。
しかし当時の状況は錯綜しており、南北戦争の戦火に焼かれた街を修復するために、教会の建材を再利用したとも言われています。
シェルドン旧教会跡は、かつては地元の住民の結婚式や写真撮影などで人気でしたが、現在は立ち入りが許可されていません。
聖フィリップ教会
引用元:https://www.flickr.com/
聖フィリップ教会はかつてノースカロライナで最も素晴らしい宗教施設のひとつだと考えられていました。
1754年、イギリス国教会が当時のアメリカ合衆国ノースカロライナ州のブランズウィック郡に聖フィリップ教会の建設を開始し、14年後の1768年に完成させました。
しかしアメリカ独立戦争中の1776年にイギリス軍がブランズウィック郡を攻撃した際にわずか1日で破壊されてしまいます。
イギリス軍はブランズウィック郡を攻撃し、家屋やオフィスなどを徹底的に破壊しています。
その後1862年に当時の南軍が南北戦争に備え、当時のブランズウィック郡を調査し、聖フィリップ教会諸共要塞化しました。
要塞は聖フィリップ要塞と名付けられ、後にアンダーソン要塞と改称されています。
1865年にはアンダーソン要塞は北軍の攻撃に遭い、当時聖フィリップ教会に放たれた砲弾の跡が今も聖フィリップ教会の壁に残っています。
現在、聖フィリップ教会はブランズウィック郡州立史跡の一部となっており、1970年にはアメリカ合衆国国家歴史登録財に認定されました。
ウッドワードアベニュー長老派教会
引用元:https://www.pinterest.fr/
ウッドワードアベニュー長老派教会はアメリカ合衆国ミシガン州デトロイトのウッドワードアベニューにある廃教会です。
デトロイトは1903年にフォードが設立されて以来、自動車工業の発展と共に急速に発展しました。
そのため当時の長老派教会がデトロイトの北部、ウッドワード地区にも教会建設の必要性を感じ、1911年に建造しました。
会員数は1921年までに2200人を超えましたが、1950年代に入ると会員がよりデトロイトの北へ移動することで減少を始めます。
1970年代に入ると会員数は約400人、1990年代には約200人にまで減少、2005年に閉鎖されました。
現在はウッドワードアベニュー長老派教会をホームレスの避難所に改装しようとする団体が、ウッドワードアベニュー長老派教会を購入しています。
セントジョージの未完成教会
引用元:https://www.bermuda.com/
北大西洋北部にあるバミューダ諸島のセント・ジョージは、イギリスがアメリカ州(南北アメリカおよび周辺の島嶼群)で最初に植民地とした都市です。
1612年に、イギリスから派遣された船団がそれ以前にバミューダ諸島にたどり着いた人々と共にセント・ジョージを建設しました。
現在バミューダ諸島は首都のハミルトンが最も栄えており、セント・ジョージは人口1200人ほどの小さな都市となっています。
しかしセント・ジョージには歴史的に重要な遺構が多く、都市全体が「バミューダ島の古都セント・ジョージと関連要塞群」として世界遺産に登録されています。
このセント・ジョージにあるのが未完成の教会です。
元々はイギリス国教会がアメリカ州で最初に建設した聖ペテロ教会の建て替えのために1874年に建設が開始されましたが、暴風雨や教会内部の対立によって未完成のまま放棄されました。
リンクルデン共同教会
引用元:https://www.flickr.com/
リンクルデン共同教会は、スコットランドのダンフリースにある廃教会です。
ニス川の沿岸、ベイリー城という城の跡地に1160年に建てられました。
リンクルデン共同教会は教会のほか、修道院などとしても使われ、1700年頃に放棄されています。
現在リンクルデン共同教会は、1450年に亡くなったスコットランド王女のマーガレットの墓と共にイギリスの遺産として保護されています。
ダンルーイー教会
引用元:https://www.flickr.com/
ダンルーイーはアイルランドのドニゴール州にある小さな村です。
ダンルーイー教会はこの村の外れ、エリガル山を背に、アルタン湖に面した風光明媚な場所に建っています。
ちなみに「ダンルーイー」という地名は、ケルト神話に深く関わりがあります。
この地にはケルト神話の太陽神であるルーが、魔神のバロールを倒したと言う伝説があり、地名もアイルランド語の「DUN Lúiche(ルーの砦)」という言葉に由来しています。
またダンルーイー教会のある場所は「CRO Nimhe(毒のグレン)」という恐ろしい地名がつけられています。
これはルーがバロールと戦った際に、バロールの毒がグレンという地を汚染したことに由来して名付けられました。
ただあくまでこの伝承は後付けだという説もあります。
実際にはイギリスの測量士が地図を作成するためにこの地を訪れた際、地元の住民が地名を「An Gleann Neamhe(素晴らしいグラン)」と説明したところ、測量士が「An Gleann Neimhe(毒のグレン)」と誤記したものが現在も続いているためだとも言われています。
聖エティエンヌ教会
引用元:https://www.geocaching.com/
聖エティエンヌ教会はフランスのカーンにある廃教会です。
詳細な建設時期は不明ですが、ウィリアム1世の治政下においてカーンが発展を始めた10世紀ごろに建てられたと言われています。
この教会はカーンの市街地に沿って建てられており、百年戦争の際には大きな被害に遭いました。
特に1417年のカーン包囲戦で教会はひどく破壊されてしまい、イギリス占領下において修復されています。
聖エティエンヌ教会は1793年に放棄され、以後は風化が進みましたが19世紀にフランス国内で保護の動きが見られ、管理されました。
しかし1944年にドイツ軍の戦車の放った砲弾が教会の柱に命中し、教会を大きく破壊しており、現在もその跡が修理されずに放置されています。
ちなみにカーンには、聖エティエンヌ教会が2つあります。
ひとつは10世紀に建設されたこの聖エティエンヌ教会で、もうひとつは11世紀に建設されました。
そのためこの聖エティエンヌ教会は「Saint-Etienne-le-Vieux(古い方の聖エティエンヌ教会)」と呼ばれ、区別されます。
聖ボナベンチュラ教会
引用元:https://civitavecchia.portmobility.it/
イタリアの首都ローマから北西におよそ40㎞、トルファ山やブラッチャーノ湖の中間地点という優れたロケーションにモンテラーノという小さな町があります。
このモンテラーノに、聖ボナヴェンチュラ教会があります。
モンテラーノはローマがほど近く、代々ローマ教皇やその親族によって領有されてきました。
中でも最盛期を迎えたのが17世紀のことです。
当時モンテラーノを領有していたのは、ローマ教皇のクレメンス10世でした。
クレメンス10世(エミリオ・ボナベンチュラ・アルティエリ)は79歳という高齢でローマ教皇に選出された経緯があり、実務はすべて枢機卿のパルッツィ・アルベルトーニが務めていました。
しかしクレメンス10世は、モンテラーノに彫刻家、建築家であるジャン・ロレンツォ・ベルニーニに多くの建築物を建てるよう依頼しました。
そのひとつが教皇自身の名を投影させた聖ボナベンチュラ教会です。
ベルニーニといえば「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのために作られた」とまで称されるバロック期の巨匠です。
ベルニーニ自体は知らずとも、ベルニーニの作品である「サン・ピエトロ大聖堂祭壇天蓋」や「サン・ピエトロ広場」、「アポロンとダフネ」などは見たことがあるかもしれません。
クレメンス10世の死後、モンテラーノはブルボン朝に占領され、マラリアの蔓延によって衰退してしまいました。
サンタ・クラーラ=ア・ヴェーリャ修道院
引用元:https://www.whatsonincoimbra.com/
サンタ・クラーラ=ア・ヴェーリャ修道院は、ポルトガルのコインブラにある修道院です。
1280年代にクララ会が設立し、1314年にポルトガルのエリザベス王妃が再建しました。
この修道院はコインブラを流れるモンデゴ川に面していたのですが、たびたび川が氾濫し、修道院に浸水していました。
修道女は床を上げたり、高台を設けたりと浸水に対抗しましたが、近くの丘にサンタ・クラーラ=ア・ノバ修道院という新しい修道院が作られたため1677年にサンタ・クラーラ=ア・ヴェーリャ修道院は放棄されました。
その後サンタ・クラーラ=ア・ヴェーリャ修道院は放置され、川に浸食されます。
しかし後世でその歴史的・文化的な価値が見直され、1910年にポルトガルの史跡に認定、保護活動が行われました。
1995年以後、修道院に溜まった泥や水を取り除くプロジェクトが行われ、2009年には通訳センターとしての再び利用されるようになっています。
廃教会は立ち入りが制限されることも多いですが、サンタ・クラーラ=ア・ヴェーリャ修道院は現在も利用を歓迎する数少ない廃教会なのです。
ジャマナ教会
引用元:https://www.flickr.com/
ジャマナはルーマニアにかつて存在した村の名前です。
1000人ほどが暮らす小さな村で、近隣には年間で11000tもの銅を産出する巨大な銅鉱床が存在していました。
そのため1977年、当時のルーマニアの政権を担っていたルーマニア共産党のニコラエ・チャウシェスク書記長が銅鉱床の開発を命じます。
しかし開発は杜撰なもので、本来厳格に管理されるべき有毒な廃棄物が溜まり、わずか1年で開発が断念されました。
そしてルーマニア政府はジャマナに廃棄物の溜まった水を流し、人造の湖とする計画を立てます。
ジャマナの住民は100㎞ほど離れた先に新たな土地と生活資金をもらって、移転を余儀なくされました。
1978年、ジャマナの大多数はシアン化合物などを含んだ危険な汚染水に沈んでおり、かつての生活の跡はかろうじて尖塔が姿を覗かせるジャマナ教会のみです。
近年、ルーマニアではジャマナ近隣の銅鉱床の開発計画が再度持ち上がっています。
ルーマニアの国民は第二のジャマナを生まないよう、抗議の声を上げています。
カザン神女就寝教会
引用元:https://www.msn.com/
カザン神女就寝教会は、ロシアのヤロポレツという小さな村に存在する廃教会です。
カザンとはロシア正教に伝わる聖神女マリヤ、つまりイエス・キリストのイコンです。
モスクワの東に800㎞行った先にあるカザンという都市、ひいてはロシア全体の守護聖人でもあります。
カザン神女就寝教会は、1100年代に当時のヤロポレツを所有していたグリゴリー・ペトロヴィッチ・チェルニシェフ伯爵が建設しました。
建設された当時は青と白の配色が美しいものであったと思われますが、荒廃しきっています。
またカザン神女就寝教会はロシアで唯一のダブルドーム型の教会です。
聖救世主教会
引用元:https://www.wmf.org/
トルコ東部、アルメニアとの国境にほど近いところにアニという地域があります。
かつてアニはシルクロード上の交易都市として栄え、特に961年~1045年までのおよそ80年もの間はバグラトゥニ朝アルメニアの首都として機能していました。
バグラトゥニ朝アルメニアは現在のアルメニアからトルコにかけての幅広い領土を有し、交易ルートを抑えることで大きな勢力を有していました。
特に首都のアニは10万人以上の人口を有しており、多くの宗教施設や宮殿などが建てられた、当時世界で最も栄えた都のひとつだったと伝えられています。
当時のアニは「千と一の教会がある都」と称されていました。
しかしアニは1236年にモンゴル軍によって略奪され、1319年に起きた大地震によって荒廃し、いつしか忘れ去られてしまいます。
2016年、アニは「アニの考古遺跡」として世界遺産に登録されました。
現在もアニにはかつての栄華を思わせる建築物が残されています。
聖救世主教会もそのひとつです。
聖救世主教会は1035年に、バグラトゥニ朝アルメニアのアブハリ・パラピッド王子が、イエス・キリストが磔にされた十字架の一部を収めるために建設されました。
1955年に嵐に遭い、教会の東半分が崩落し、現在は西半分しか残されていません。
ロス島の長老派教会
引用元:https://www.flickr.com/
ロス島はインド洋のベンガル湾南部、アンダマン・ニコバル諸島にある島です。
18世紀にマラーター同盟が占領し、マラーター戦争に勝利したイギリスが領有します。
イギリスはアンダマン・ニコバル諸島を流刑地とし、政治犯を送り込みました。
この流刑は現地では「カーラーパーニー(ヒンディー語で「黒い水」)」と呼ばれました。
植民地支配していた時代、イギリスはアンダマン・ニコバル諸島に多くの建築物を建てています。
ロス島の長老派教会もその一部です。
ロス島にはこの教会の他に、住宅や商店、プールなどが作られました。
特にロス島のパン屋は現代的な設備が整っており、パンの他にケーキなど多くの料理に対応していました。
またアンダマン・ニコバル諸島は1942年に日本軍に占領され、日本軍によってバンカー(コンクリート製の掩体壕)などが作られました。
しかしこれらの建築物は1941年に起きた地震によって大きな被害を受けています。
聖ポール天主堂跡
引用元:https://www.tabicasi.com/
聖ポール天主堂跡(サン・パウロ天主堂跡)は中国南部の特別行政区であるマカオの世界遺産「マカオ歴史地区」を構成する世界遺産のひとつです。
大三巴牌坊、大三巴、牌坊などとも言われています。
マカオはポルトガルの海外領土だった歴史が長く、カジノやモータースポーツなどが盛んに行われる世界的な観光地です。
現在のマカオの歴史は16世紀にまでさかのぼります。
1557年にポルトガルが当時の明王朝からマカオの居留権を取得しました。
1887年に、中葡和好通商条約によってマカオは正式なポルトガル領となりましたが、貿易港としての機能はイギリスの租借地であった香港に大きく劣っていました。
土砂が堆積しやすく大型船の入港が難しいマカオの特性やポルトガル自体の衰亡が関係していたと考えられます。
太平洋戦争中は中立を維持したポルトガルの方式によってマカオは中立港として機能し、太平洋戦争後、マカオは1999年に中国に返還されました。
聖ポール天主堂跡は、1602年にイエズス会が建設を始め、1640年に完成させています。
元々1582年に聖アントニオ教会の礼拝堂として作られ、1601年に焼失したものをイエズス会が再建したのです。
マカオには他にも聖母教会や聖ポール教会など数多くの建築物が建てられており、聖ポール天主堂はマカオのアクロポリス(象徴)として機能していたと考えられています。
完成当時の聖ポール天主堂は「東洋1美しい教会」とまで言われましたが、1835年に起きた火災によって大半が焼失してしまいました。
現在残る聖ポール天主堂跡はファサード(建築物の正面部分)と66段の石段のみです。
1990年から1995年にかけて発掘調査がなされ、コンクリートと鉄骨で支えられています。
まとめ
今回は世界の廃教会を紹介しました。
教会は他の建築物には見られない独特の建築様式を有しており、廃墟として朽ちる前にも人気を集めています。
例えばバチカン市国やドイツのケルン大聖堂、ロシアの聖ワシリイ大聖堂などは世界的な観光名所であり、世界中から多くの観光客が訪れます。
しかし廃墟になった後も、教会は趣の異なる美しさを帯びます。
メジャーな廃教会からマイナーなところまでさまざまですが、今後もし海外旅行に行く機会があればぜひ訪れることを検討してみてください。
おそらく唯一無二の経験となるはずです。
ただ今回紹介したものの中にも、文字通りの廃墟として立ち入りが危険なところがあります。
廃墟を訪れるときには装備を整え、万全の準備をして行くようにしてください。