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歴史上最も有名な武器商人9選

武器商人とは、武器や兵器を売買し、ビジネスを行う人間のことで、敵味方問わずカネを払う者には誰であれ武器を販売する姿勢から、死の商人と揶揄されることもあります。

死の商人という言葉は中世ヨーロッパで、敵対する両勢力に武器を売り利潤のみを追い求める商人の姿から生まれた蔑称といわれます。

武器商人は、自ら武器を製造して販売する技術者やメーカーと、武器取引の仲介をするブローカーの2種類に分けられます。

扱うものが戦争の道具であるため、しばしば批判の対象になる武器商人ですが、国家が戦争を行う上ではこうした人物の存在は必要悪であるともいえます。

ここでは、死の商人と呼ばれながらも、舞台裏から歴史を動かしていた世界の武器商人たちを紹介していきます。

アルフレッド・ノーベル

引用:money-academy.jp

アルフレッド・ノーベルは、ダイナマイトの発明者として知られる化学者・発明家で「ノーベル賞」の生みの親としても有名です。

ノーベル賞は、ノーベルの遺言をもとにして彼の死後に遺産を使って始められました。

世界的にも有名で、平和賞まであるノーベル賞の生みの親が武器商人というのは、すぐには結びつかないかもしれません。

ですが、ノーベルは現在も存在するスウェーデンのボフォース社をただの鉄工所から巨大な兵器メーカーへと発展させた人物でもあるのです。

ダイナマイトの誕生

引用:wondertrip.jp

ノーベルは、1833年10月21日、スウェーデンの首都ストックホルムにおいて、発明家で建築家でもある父イマヌエルと母カロリーナの間に生まれました。

ノーベルは子供のころから工学、特に爆発物に興味をもっており、父親も機械や爆発物製造で事業を起こしており、機雷の製造も行っていました。

イマヌエルは、1863年からはじまったクリミア戦争での兵器生産で莫大な利益を上げますが、戦争が終わると受注がなくなった上に、軍がそれまでに納品した分の支払いを延期するようになったため、資金繰りが苦しくなってとうとう破産してしまいます。

一方、ノーベルは父の事業を手伝ったり、アメリカへの留学をしたあと、爆発物の研究に没頭し、爆薬の一種であるニトログリセリンに目を付けます。

ニトログリセリンは、不安定な物質でちょっとした衝撃でも爆発することがあり、当時は扱い方が確立していなかったため、狙って爆発させるのは難しいと考えられていました。

ニトログリセンリンを安全に使用する研究を続けたノーベルは、ついに十分な安定性をもつダイナマイトの製造に成功します。

ノーベルが発明したのは、珪藻土ダイナマイトと呼ばれるもので、危険なニトログリセンリンを珪藻土に染みこませて安定性を高めたもので、珪藻土は爆発を阻害するためのちにはブラスチングゼラチンが使われるようになりました。

ノーベルはダイナマイトによって50か国で特許を取得し、100近い工場を建て、ダイナマイトは世界中で採掘作業や土木工事の現場で使用されるようになります。

死の商人、死す

ダイナマイトはノーベルに莫大な利益をもたらし、一躍彼を大富豪に仲間入りさせただけでなく、スウェーデン王立アカデミーの会員に選出されたり、フランス政府からの勲章や北欧最古の大学であるスウェーデンのウプサラ大学から名誉学位を授与されるなど数多くの名声をももたらしました。

ボフォース社はノーベルが経営者を務めていた2年ほどの間に飛躍的な成長を遂げ、ノーベル自身はダイナマイトを含め、生涯で350もの特許を取得しています。

ノーベルがそんな栄光の絶頂にあった1888年4月12日、フランスのカンヌを訪れていた彼の兄が死亡します。

このとき、ノーベルが死んだと勘違いした現地の新聞には、「死の商人、死す」という見出しが躍りました。

さらに、本文には「可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物が昨日、死亡した」との記述もありました。

これを見たノーベルは大変心を痛め、自分が世間からどのような目で見られているか、自分の死後の評価はどうなるのか、ということを気に掛けるようになります。

そして、自分が築いた財産がより多くの人の役にたつようにしたいと考えたノーベルは、ノーベル賞の創設を遺言状に残したのでした。

ノーベル賞には彼の遺産の94%が使われ、物理学賞、化学賞、医学賞、文学賞、平和賞、経済学賞(経済学賞のみスウェーデン国立銀行におり創設)の部門から構成されており、現在も特に化学分野においての受賞は最高峰の名誉といわれています。

ヴィクトル・ボウト

引用:www.rferl.org

『ロード・オブ・ウォー(Lord of war:戦争の支配者)』は、2005年に公開されたニコラス・ケイジ主演の映画で、架空の武器商人ユーリ・オルロフの生涯を描くものです。

この映画は、実在する複数の武器商人への取材通じて製作されたもので、ノンフィクションに基づくフィクションとなっています。

みなさんの中にもご覧になったことのある方がいるかもしれません。

この作品でユーリのモデルの1人になったといわれるのが、タジキスタン出身の武器商人ヴィクトル・ボウトです。

ボウトの生い立ち

ヴィクトル・ボウトは、1967年1月13日、当時ソ連の一部だったタジキスタンの首都ドゥシャシベに生まれました。

ボウトは元ソ連軍人で、モスクワの軍事学校に進学して英語・フランス語・ポルトガル語を勉強した後、ソ連空軍に勤務します。

彼の最終階級は中佐とされ、ソ連の諜報機関であった国家保安委員会(KGB)のメンバーであったともいわれています。

ボウトは、1980年代後半からアンゴラでのソ連の軍事作戦に関与し、MPLA(アンゴラ解放人民運動)の支援を行いました。

彼はロシア語だけでなく、英語・ポルトガル語・フランス語・アラビア語・ペルシア語・エスペラント語など多数の言語に精通していて、こうした彼の能力や経験は後に武器商人として生きる上で大いに役立ったと思われます。

ロード・オブ・ウォー

普通の軍人だったボウトにとって、人生の転機となったのが、彼が24歳のときに起こった1991年のソ連崩壊でした。

ソ連解体とその後の混乱を利用し、ボウトはソ連時代の中古武器や航空機、ヘリコプターを格安で手に入れ、それを世界各地の紛争地域の武装勢力に向けて販売するという武器密輸ビジネスをはじめました。

ソ連の航空機やヘリコプターは、格安の上で頑丈でメンテナンスも楽で人気がありました。

ボウトは1992年にソ連製のアントノフ輸送機3機を12万ドル(約1230万円)で購入したことをインタビューで話しています。

この頃ボウトはアフガニスタンへ何度も足を運んでいて、国際テロ組織アルカイダやタリバンとの関係も疑われており、イギリスの外務大臣であったピーター・ヘインはボウトを「死の商人」と名指しで非難しています。

ほかにも、ボウトが1度に50機を越える航空機を使って大量の武器をアフリカに密輸していた事実が国際人権団体のアムネスティ・インターナショナルによって告発されていたり、内戦のため国連によって武器禁輸措置がとられていたリベリアのチャールズ・テーラー大統領にも武器を売ったとされています。

あるジャーナリストによると、ボウトのビジネスモデルは老朽化して放置されたりしている軍の中古航空機等をタダ同然の値段で仕入れ、それに大量の武器を詰め込み、顧客のもとへ空輸(密輸)するという3段階から成り立っていました。

これは単純な仕組みでしたが、ビジネスとしてはこれ以上ないほど優れたもので、ボウトに莫大な利益をもたらしたと考えられています。

彼の名前は国連やNGOの報告書にもたびたび登場するようになり、ほかにも闇で生きている武器商人がいたものの、ボウトの名前こそが武器商人の代名詞のような存在になっていきます。

そして、戦争の裏方として生きていかねばならない武器商人にとって、名前が売れるということは必ずしも良い結果を招くとは言えませんでした。

逮捕された死の商人

引用:www.cbsnews.com

有名になるということは同時に当局からマークされてしまうということで、武器商人としては動きにくくなるということでもあります。

2008年6月、モスクワからタイに入国したボウトは、バンコク市内の高級ホテルに滞在していたところをタイ警察によって逮捕されました。

彼は1年以上前からアメリカ司法局の法執行機関である麻薬取締局(DEA)に目をつけられており、長きにわたるおとり捜査が行われ、ボウトがこのホテルでコロンビアの反政府左翼ゲリラであるコロンビア革命軍(FARC)と数百万ドル規模の武器取引契約を結ぶ予定であることをつきとめていました。

取引内容は地対空ミサイル100基やアサルトライフル数千丁とされ、ボウトはこの取引で武器輸送費の名目だけで500万ドル(約5億3000万円)もの報酬を得ることになっていました。

逮捕されたとき、ボウトは7つの名前と5つのパスポートをもっていたとされます。

ボウトには他の武装勢力への武器売買を通じてテロを支援した疑惑もありましたが、彼は一貫して容疑を否認しました。

その後、ボウトの身柄はタイからアメリカへと引き渡されてDEAへと連行され、2011年には殺人の共謀罪で有罪判決を受け、2012年に禁固25年と罰金1500万ドル(約12億円)の判決が下されました。

ロシア政府はこの逮捕からの一連の流れと判決について強く非難しました。

ボウトが逮捕された理由については、リベリアでの武器取引で国連のブラックリストに載せられたことなど有名になりすぎたということが第一です。

ボウトがこれまで逮捕されなかったのは、プーチン大統領をはじめとするロシアの要人とのつながりがあったことや、過去にはアメリカ政府とも取引があったと事実も指摘されています。

ボウトはイラク戦争時に国防総省の下請けとして1000回以上におよぶイラクへの物資輸送を行っており、6000万ドル(約64億円)以上を受け取っていました。

これこそが、武器ビジネスの闇の深さを現しているといえ、様々な戦争の裏で暗躍したボウトはまさしくロード・オブ・ウォーの名がふさわしい人物といえるでしょう。

大砲王クルップ

引用:ja.wikipedia.org

クルップ社はドイツのエッセンにある重工業企業で、その歴史は長く、現在では他社との合併により巨大な工業コングロマリットになっています。

クルップ社を大きく発展させたのが、「大砲王」と呼ばれた2代目当主であるアルフレート・クルップです。

アルフレート・クルップは1812年4月26日、発明家フリードリヒ・クルップの息子として生を受けました。

父は木造の作業場を造って鋳鋼の製造を試みていましたが、成功することなく死去し、14歳だったアルフレートが工房を相続します。

当初は工具や食卓ナイフスプーンなどを細々と作っていたアルフレートですが、やがて蒸気機関車の車輪の製造などをはじめます。

当時はドイツで鉄道の敷設が始まったところで、クルップ社が鉄道の車輪を表す3つの輪を社章としているように、これがクルップ社としての事業を飛躍的に発展させることにつながります。

続いて、クルップは新型の炉を完成させ、当時のドイツの有力国家であったプロイセンの陸軍へ向けて大砲の売り込みをかけますが、軍はこれに興味を示しませんでした。

大砲王クルップ

引用:www.ndl.go.jp

そこでクルップは、ロンドンで開かれた第1回世界万国博覧会に自ら製造した6ポンド砲であるクルップ砲を展示し売り込みを図ります。

これがもとでフランスやベルギー、スイス、エジプトなどから注文が舞い込み、特にフランス軍はクルップ社の最大の顧客となり、1858年には火砲300門という大量発注を行います。

しかし、当時のクルップ社にはこれに対応する能力がなく、納入は見送られることになりました。

これを見たプロイセン陸軍は、ドイツの企業がドイツとライバルのフランスに火砲を売ろうとしている事実に脅威を感じ、翌年に今度はプロイセンがクルップに火砲300門を発注し、これはドイツの軍隊がなかなか自社の兵器を買おうとしないことに不満を募らせていたクルップを満足させる出来事でした。

死の商人クルップ

クルップ社は、この頃プロイセンと関係の悪化していたオーストリアに対しても火砲の販売を行っていました。

そこで、1866年に起きた普墺戦争では、プロイセン軍とオーストリア軍が同じ材料、同じ工場で生産されたクルップの大砲で撃ちあうことになります。

これと前後してアルフレートはプロイセン政府に対して露骨な脅迫と言える言動を行うようになり、プロイセン軍が兵器納入業者の競争入札を行う際には、「もしもクルップ以外の企業が1門でも大砲を受注しようものなら、わが社はただちに全世界に対して必要とするだけの大砲を売り渡すでしょう」と脅しをかけました。

さすがのプロイセン政府もこれを無視することはできず、クルップ社に対する資金援助などを行いましたが、それでもクルップは他国に対して兵器を売ることをやめようとはしませんでした。

クルップは鉄血宰相といわれたビスマルクとも懇意にしており、兵器供給面からプロイセンによるドイツの統一を支えました。

が、アルフレートが見ていたのはあくまでも自社の利益のみであり、カネさえ払えばドイツ以外のどこの国に対しても躊躇なく兵器を売りました。

この態度はアルフレートが死去して、会社が息子のフリードリヒ・アルフレート・クルップに受け継がれても変わることはありませんでした。

1909年にはクルップ社がイギリスと軍艦の製造の商談を進めていたのを、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が圧力をかけて潰したところ、今度は逆にクルップ社がドイツ政府に自社の兵器を買わせるということもありました。

クルップ社は常に工場を増やして生産を拡大し、生産量が受注量を上回るようになると、余った兵器は輸出すると脅して、ドイツにさらに兵器を買わせるなど、その影響力はすでに一企業を越えていました。

クルップ社の砲はドイツだけでなく日本をはじめとする海外でも使われ、第一次・第二次大戦では大量のクルップ社製の火砲を用いて戦いました。

神秘の男 バジル・ザハロフ

引用:ja.wikipedia.org

バジル・ザハロフは、本名をザカリアス・バジレイオス・ザハリアスといいますが、単にザハロフと呼ばれることが多い、トルコ生まれのユダヤ人武器商人です。

多数の兵器企業の代理人となり、さまざまな武器取引にかかわった著名な兵器ブローカーです。

ザハロフの経歴については不明な部分が多いのですが、1849年10月6日、当時はオスマン帝国の治世下にあったトルコのムーラ県ムーラでギリシャ人商人のもとに生まれたとされます。

少年の頃からコンスタンティノープルで貿易商をしている叔父のもとで働いていたものの、店の売り上げを横領して逮捕されるという事件を起こしています。

その後、ザハロフはギリシャの首都アテネで、潜水艦と機関銃の製造を行っていたスウェーデンの兵器企業トールステン・ノルデンフェルト社の代理店で主任の地位につきます。

ギリシャ政府への兵器の売り込みでは、クルップ、ヴィッカース、シュナイダーなど競合他社と比較してトールステンは遅れをとっていました。

そこで、ザハロフは当時まだ珍しかった潜水艦の売り込みをかけ、商談を成立させると、今度はギリシャと敵対関係にあったトルコに対してもギリシャの脅威を煽って潜水艦を買わせることに成功します。

1887年、マキシム機関銃の発明者であるハイラム・マキシムと懇意になったザハロフは、ヨーロッパ中にマキシム機関銃を売り込み、大きな成果を上げます。

マキシム社がヴィッカース社に買収されると、今度はヴィッカースの代理人として、特にロシアへの売り込みに力を入れ、日露戦争で敗れたロシアのため海軍の再建や工廠の近代化など多数の受注を取り付けました。

一方で、ロシアとオスマン帝国のあいだで露土戦争が起こると両者に兵器を売り込んでいます。

ザハロフが他の武器商人と違うところは政治工作や裏工作にも長けていたところで、第一次大戦では、当初親ドイツ的だったギリシャに政情不安を煽って反ドイツ世論を高める工作を行い、連合国側について参戦させることに成功します。

多くの陰謀を巡らせていたことや、対価を支払うなら誰に対しても武器を売ることをモットーとして、ヨーロッパ各国への武器の売買に関わっていたことから、ザハロフは「第一次大戦を引き起こした男」と呼ばれることもあります。

ザハロフがどれだけ各国や戦争の行方に影響力をもっていたのかは定かではありませんが、彼の武器取引はイギリスやフランスに莫大な利益をもたらしたとされ、フランスからは勲一等を授与され、イギリスからは「サー」の称号を与えられています。

謎多き人物であり、武器商人でありながら不似合いな栄誉を受けていることなど、ザハロフが神秘の男と呼ばれる所以といえるでしょう。

IG・ファルベン

引用:www.cscd.osaka-u.ac.jp

IG(イーゲー)・ファルベンインドゥストリー(略称:IG・ファルベン)は、かつてドイツに存在した巨大な化学産業トラスト(企業合同)です。

IG・ファルベンが生まれたのは第一次大戦後のドイツで、大戦中に毒ガスの製造を請け負っていた3社が企業同盟を結び、そこに他社も加わり最終的には9社の化学系大企業が集まったIG・ファルベンインドゥストリーが誕生します。

IGとは「利益共同体」を意味し、ヘッセン州のフランクフルト・アム・マインに本社が置かれ、資本金は11億ライヒスマルクにもなり、国際的に見ても群を抜いた競争力をもっていました。

ナチ党が台頭してくると、IG・ファルベンはこれに接近し、第二次大戦がはじまるとナチスドイツの戦争遂行に積極的に協力して、なくてならない重要なパートナーになっていました。

強制収容所でユダヤ人の大量虐殺に使用されたとされる毒ガス「ツィクロンB」を製造するため、IG・ファルベンは新たに資本参加によってデゲッシュ社を設立し、ナチス親衛隊に販売を行っていました。

こうした戦争協力の事実により、戦後、IG・ファルベンは独占解消のために解体され、役員23人が戦象犯罪人として起訴されました。

そのうち13人には有罪判決が出されましたが、ドイツ産業界にダメージを与えることは復興を阻害しアメリカの国益も損なうという判断によって、死刑になった人間はおらず、全員が刑期満了前に釈放されています。

アドナン・カショギ

引用:ja.wikipedia.org

アドナン・カショギは、サウジアラビアの武器商人で、貿易関係商社トライアド・インターナショナルの会長兼代表取締役をつとめています。

アドナン・カショギは、1935年7月25日、サウジアラビアの初代国王イブン・サウードの侍医であるムハンマド・カショギの息子として生まれ、エジプトのビクトリア大学、アメリカのスタンフォード大学への留学経験を経て、サウジアラビアで貿易会社の経営をはじめます。

1960年代から70年代にかけて日本やアメリカの企業とサウジアラビアとの取引を仲介するようになり、クライスラーやレイセオン、フィアットといった各国の大企業とも取引を行うようになります。

カショギは、武器取引だけでなく、投資や不動産所有などを行う多国籍商社トライアド・インターナショナルを設立し、ホテルやショッピングセンター、銀行、自動車会社からプロスポーツチームの経営まで多種多様なビジネスに手を出しました。

トライアド社は、スイスのジュネーブに本社を置き、アメリカ、カナダ、サウジアラビアに子会社をもっていて、カショギの資産は最盛期には40億ドル(約4200億円)に達していたといわれます。

一方で、カショギはアメリカのロナルド・レーガン大統領が武装勢力に捕えられたアメリカ兵を助けるためにイランとの秘密の武器取引を行ったり、ニカラグアの反共産ゲリラであるコントラへの援助を行っていたとされるイラン・コントラ事件などいくつもの裏取引や汚職事件にも関わり暗躍していました。

カショギはいくつもの闇取引を行い、こうした武器売買の仲介で莫大な手数料を得ていたといわれます。

2016年にもカショギが韓国軍の次期戦闘機の選定について、元モデルの女性を使い、ロッキード・マーティン社のロビイストとして活動していたことが明らかになっています。

アドナン・カショギは、2017年6月に、82歳でこの世を去っています。

トーマス・グラバー

引用:tabi-and-everyday.com

トーマス・ブレーク・グラバーは、スコットランド出身の武器商人で、幕末の日本で活躍したことで知られます。

沿岸警備隊の航海士を父にもつグラバーは、学校を卒業したあと商会に入社し、1859年には長崎を渡ってグラバー商会を設立し、貿易商をはじめます。

当時、日本は外国からの圧力によって鎖国を一部取りやめて開港を行っており、グラバーも最初は日本からの輸出品である生糸や茶の取引に携わっていました。

やがて、日本国内における討幕派の動きが活発になるにつれ、そこに目をつけたグラバーは、討幕派の藩、佐幕派の藩、幕府問わず、あらゆる勢力に対して武器・弾薬の販売を行うようになります。

坂本龍馬が設立した亀山社中(海援隊)と取引を行ったこともあります。

グラバーは、武器商人としてだけでなく、日本で商業鉄道が開始される前に蒸気機関車(アイアン・デューク号)を走らせたり、長崎に西洋式ドックを建造するなど実業家としても活躍し、肥前藩と契約を取り交わして長崎の高島炭鉱の開発も行っています。

明治維新後は、武器の売り上げが悪くなったことからグラバー商会は倒産しますが、グラバー自身はその後も日本に留まり、日本人女性のツルと結婚し子供をもうけ、高島炭鉱や麒麟麦酒(キリンビールで知られる現在のキリンホールディングの元になった会社)の経営によって近代化日本に大きく貢献しました。

この功績から、グラバーは外国人としては破格の勲二等旭日重光章を授与されています。

アブドゥル・カディール・カーン

引用:www.youtube.com

パキスタン出身の技術者であるアブドゥル・カディール・カーンは、世界中に核技術の闇市場ネットワークを構築し、核兵器の製造技術を密売したことで知られます。

1936年4月1日、当時はまだイギリスの植民地だったインドに生まれたカーンは、ヨーロッパに渡りオランダのウラン濃縮機器を製造する会社に勤めた後、パキスタンに帰国して核開発の責任者になります。

1998年はパキスタンで原爆実験を成功させ、パキスタンの核開発の父と呼ばれます。

カーン博士は、自国だけでなく、イラン、リビア、北朝鮮といった国に核兵器の開発技術を密売し、核の闇市場を形成して核拡散を行いました。

スリランカの貿易商やマレーシアの工場、スイスの企業など世界各地の拠点が絡んだカーン・ネットワークが構築されており、これには20か国以上の企業が関わっていたともいわれます。

本人も、2004年にテレビ番組に出演した際に、国際的な地下核ネットワークへの関与を認めており、必要な部品の一部に関しては日本企業から調達したとも言っています。

このインタビュー後、カーン博士はパキスタン政府によって自宅に軟禁されることになります。

実は、カーン博士が個人の力だけでこれだけ大々的な密売ルートを構築できたとは考えられず、パキスタン政府や軍の関与していたのではという疑惑がもたれているのです。

ですが、パキスタン政府は調査の結果、あくまでも博士個人がやったことであるというスタンスを崩しておらず、カーン博士は2009年に軟禁状態を解除されています。

サム・カミングス

引用:images.gmu.edu

サム(サミュエル)・カミングスは、インターナショナル・アーマメント・コーポレーション(略称:インターアームコー)の創設者で、世界中で兵器の売買を行っていた武器商人です。

1927年生まれのカミングスは子供の頃からガンマニアのコレクターで、高校卒業後に陸軍に入隊するとその豊富な知識を認められて兵器研究機関で技官として勤務します。

カミングスは除隊後、CIAにスカウトされ、朝鮮戦争で北朝鮮軍から鹵獲した兵器をリスト化してレポートにまとめるという仕事を任されます。

ほかにも、台湾の国民党軍を支援するため、第二次大戦後ヨーロッパ各地に放置されていたドイツ軍の兵器を改修して台湾に送るという任務も任されていて、これを通じて武器商人としてのノウハウを身に着けていきました。

26歳のとき、CIAを辞めたカミングスは独立して会社を立ち上げます。

これがインターナショナル・アーマメント・コーポレーションで、南米やヨーロッパで仕入れた中古の銃などをアメリカ人のコレクターに安く売るというビジネスモデルで成長し、やがて、ヨーロッパの兵器企業の代理店業務や銃器のライセンス生産なども手掛けるようになります。

扱う商品も、最初は小銃だったのが、大砲やバズーカ、迫撃砲から果ては戦車や航空機まで軍隊に売れるものならなんでも買い取るようになり、一時期は民間企業による兵器売買の市場で9割以上のシェアをもっていました。

カミングスは、非合法な商売には手を出さないことを信条としていたため、イラクのサダム・フセイン大統領等と商談の機会があっても、輸出国の許可がとれなければ武器を売ることはありませんでした。

ビジネスで成功をおさめたカミングスは、もともと武器マニアであったことから、一国の兵器博物館に匹敵する規模のプライベート・コレクションをもつようになります。

カミングスは、1998年に71歳でこの世を去り、彼の死後インターアームコー社もなくなっています。

まとめ

以上、世界の有名な武器商人たちを紹介してきました。

人類の歴史は戦争の歴史ともいわれるように、人類社会と戦争とは切っても切れない関係にあり、現在でも世界各地では戦争や紛争が頻繁に起こっています。

その裏では、今も武器商人たちが暗躍しているのかもしれません。

人類が戦争をやめない限りは、武器や兵器の需要がなくなることもなく、武器商人たちがこの世からいなくなることもないのかもしれません。

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