埋蔵金とは、地中などに埋められている財宝のことをいいます。
多くの人は、金や銀の小判がザクザク詰まった瓶などを想像するのではないでしょうか。
埋蔵金の発見というと、非日常的な話に思えるかもしれませんが、日本国内では太平洋戦争後にこうした埋蔵金の発見例が50件ほどあり、けっして夢物語ではありません。
ここでは、過去に日本各地で発見されたロマンあふれる埋蔵金の数々をご紹介します。
鹿島清兵衛の埋蔵金
引用:aucfree.com
鹿島清兵衛(かじませいべい)は、明治時代の写真家で、豪商の跡取りに生まれながら、趣味の写真を生業にし、その破天荒な生き方は森鴎外の小説『百物語』のモデルにもなりました。
江戸時代に酒問屋である豪商「鹿島」の次男として生まれ、4歳のときに東京にあった同族の鹿島本店の跡取り養子になりました。
もともと絵画が趣味であった清兵衛は、蔵で写真機を見つけたことをきっかけに写真に目覚め、自らスタジオを造ったり、海外の写真家の展覧会を開催するほどにのめりこんでいきました。
清兵衛は写真のために金に糸目をつけない豪遊ぶりから「写真大尽」と呼ばれ、豊富な資金力をもとに、ヨーロッパから最新の写真機材や技術を日本に導入し、ほかの写真家たちのパトロンにもなりました。
1963年(昭和38年)、東京都中央区新川の日清製油(現在の日清Oillio)本社ビルの建設現場から、大量の小判が発見されました。
江戸時代の天保小判1900枚、天保二朱金約78000枚という莫大な量の埋蔵金は、当時の時価で6000万円、現在だと10億円に相当するといわれます。
この埋蔵金は、鹿島家の屋敷跡から発見され、写真の現像液を入れるガラス容器3本に入れられていました。
そのため、これこそ「写真大尽」鹿島清兵衛の埋蔵金だと騒がれました。
鹿島家は空襲により家を焼け出され、大宮に移住していましたが、当時の10代目当主が名乗りを上げました。
清兵衛の弟・清三郎の回想に、幕末の頃、幕府の人間が鹿島家にしつこく御用金を取り立てにやってきて断ると嫌がらせを受けたため、小判を床下に埋めて、そのまま忘れていたのを弟が13歳のときに掘り起こした、というものがあります。
清兵衛は清三郎のことをロンドンに写真留学させるなど、可愛がっていたようで、弟の見つけた小判を彼が再び埋め直したものと思われ、発見された埋蔵金は子孫に返還されることになりました。
銀座・小松ストアーの埋蔵金
引用:http://www.hakubutu.jp
1956年(昭和31年)、百貨店法の改正を受けて、本館の大規模な改装工事を行っていた小松ストアー(現在のギンザコマツ)の敷地から、大規模な埋蔵金が発見されました。
これは、江東区深川へ運んだ工事現場の土砂のなかから、土ならしを行っていた作業員によって発見されました。
見つかったのは慶長・正徳・享保小判の3種類、合計208枚で、ほかに、同じく3種類の一分金60枚も見つかりました。
これらは江戸時代の小判のなかでも最も金の純度が高いとされる希少なものです。
この埋蔵金は持ち主がみつかりませんでしたが、小松ストアーの社長はすぐに所有権を放棄し、「埋蔵文化財」として国に寄贈されました。
小松ストアーでは、新しいビルが建つと事件をもとに、見つかった小判の展示や埋蔵金発見セールを行い、「小判チケット」という名のポイントカードもスタートさせ、新店舗での商売に弾みをつけました。
小松ストアーの埋蔵金は、現在も上野の東京国立博物館で保管されています。
東京の埋蔵金ラッシュ
引用:www.travelbook.co.jp
小松ストアーや鹿島清兵衛の埋蔵金が見つかった昭和30年代の東京は、まるでゴールドラッシュのように次々と埋蔵金が発見された時期でもありました。
当時見つかった埋蔵金には次のようなものがあります。
1957年(昭和32年)、台東区の第一信託銀行菊屋橋支店の工事現場から天保一分銀1086枚が発見されました。
この一分銀は極めて純銀に近く、現在の価値にして約870万円にもなるそうですが、所有者が現れなかったため、発見者と土地の所有者が折半して受け取ることになりました。
同じく1957年は、中央区銀座の富士銀行数寄屋橋支店の工事現場からも、埋蔵金が発掘されています。
この元文小判68枚は、現在の価格で約2700万円とされ、こちらも所有者が見つからなかったため、発見者と土地所有者の折半になりました。
1959年(昭和34年)には、台東区御徒町の営団地下鉄の工事現場から小判3枚が発見され、文化財として保管されました。
1960年(昭和35年)、千代田区の岡崎ビル工事現場から元文一分金41枚(約160万円)が発見され、発見者と所有者の折半となりました。
1963年(昭和38年)、港区のビル工事現場から慶長一分金320枚が発見されました。
慶長一分金は、江戸・京都・駿河の3ヶ所で作られ、品質が違って価値にばらつきがありますが、約4800万円~1億1200万円と推定されます。
1964年(昭和39年)には、目黒区で水道工事中に、一分金・二朱金など4609枚が発見されました。
同じ1964年には、江東区有明の現在の有明コロシアムがある辺りの埋め立て地で、中学生がゴミの中から慶長小判15枚を見つけました。
この出来事は大きな騒ぎを起こし、多くの人々が自分も埋蔵金を見つけようと押しかけ、なかには弁当をもって一日中そこらを掘りまくる人も現れました。
さらに、1週間後には13枚、翌月には7枚が発見され、小判は全部で35枚になったので、人々の努力も無駄ではなかったといえます。
見つかった小判の価値は、現在なら4500万円から最大で1億円にもなるといわれます。
江東区の埋め立て地では1957年にも小判が見つかり、テレビ番組の鑑定で総額1650万円と評価されました。
このように、東京では一時期、あちこちの建設現場から相次いで埋蔵金が発見されていた驚きの時代があったのです。
山形・最上川の小判
引用:http://golf-562.com
1961年(昭和36年)、山形県西置賜群白鷹町の最上川で、手作りの箱眼鏡を使って魚取りをしていた小学生が、川底になにか金色の煌めきを見つけました。
拾い上げてみると、それはなんと小判だったのです。
彼が見つけたのは1枚だけでしたが、噂を聞きつけた多くの人々が最上川に押しかけ、ピーク時には100人近くになったといいます。
白鷹町には、米沢藩の御用商人で治水工事も尽力した西村久左衛門が自宅地下に子孫のために財産を埋めたという言い伝えがあり、住民のなかには川岸にあった久左衛門の屋敷が洪水で流され、小判も川底に沈んだのではないかという憶測がありました。
それから半月ほどのあいだに、最上川では文政小判23枚、文政二分金9枚、文政南鐐二朱銀358枚が新たに見つかりました。
これらの埋蔵金は久左衛門の生きていたのとは違う時代の貨幣であるため、どうやらこれは久左衛門の埋蔵金ではないと考えられていました。
しかし、その後地元の郷土資料に、「天保3年(1830年)7月10日、米沢藩の大和屋久左衛門から荒砥の清水屋に80両を運んでいた飛脚が、鮎貝から荒砥の間にある最上川で溺死した」という記述が発見されたのです。
1830年は文政小判が流通しはじめた時期で、埋蔵金が見つかったのは当時の渡し場の近くでした。
つまり、最上川の小判はこのとき飛脚とともに川に沈んだもので、子孫のための埋蔵金ではありませんが、確かに久左衛門の財産だったのです。
資料には小判80枚とありますが、これまでに見つかった埋蔵金の合計は72両1分であり、7両3分が足りません。
最上川には、どこかにまだ残りの小判が埋まっている可能性があるということです。
最上川の埋蔵金は、発見者がそれぞれ保管していましたが、その後、町によって文化財指定され、白鷹町役場の出納室の金庫で一括保管されています。
山梨・観光ブドウ園の甲州金
引用:tabelog.com
1971年(昭和46年)、山梨県東山梨郡勝沼町(現甲州市)の観光ブドウ園でゴミ捨て用の穴を掘っていたところ、地面からなにか金色に光るものが見つかりました。
それは、蛭藻金(ひるも金)と古いタイプの甲州金18枚、さらには渡来銭(中国から輸入した銅銭)の5000枚でした。
甲州金とは、戦国時代から江戸時代まで甲斐の国(現在の山梨県付近)で流通していた金貨で、日本で初めて体系的に整備された貨幣制度としても知られています。
蛭藻金は、水草の蛭藻に似た細長い楕円形の金貨で、内部まで金でできていることを証明するために薄く引き伸ばされているもので、戦国時代に戦国大名の支配地で通用する領国貨幣として発行されたものです。
蛭藻金と甲州金はどちらも金の純度が高いため希少価値があり、1枚当たり数百万円ともいわれているものです。
この甲州金には、重量にバラツキがあり、16世紀以降一般に流通して甲州金には刻印がされているはずなのに、これにはないことなどから庶民の間で流通していたものではなく、軍用金として使われていたものではないかと考えられています。
そして、甲州といえば風林火山で有名な戦国武将・武田信玄の領国であり、埋蔵金が発見されたあたりには、かつて武田氏の一族である勝沼氏の館があった場所とされ、なんらかの目的で勝沼氏が埋めた軍資金だったのはないかという説もありますが、はっきりとしたことはわかっていません。
山梨では、以前にも武家の館のあった場所から、甲州金や大量の埋蔵銭が発見されたこともあり、武田氏由来の埋蔵金がほかにも埋まっている可能性があって、武田信玄の埋蔵金伝説も残されています。
このブドウ園の埋蔵金は、発見後40年を経た2011年、山梨県立博物館によって約1億円で買い取られ、2013年には特別展として一般公開もされています。
難破船の財宝
引用:travel.navitime.com
埋蔵金とは、なにも地中に埋まっているものばかりではありません。
その昔、船とともに沈んだ財宝が時代を経て発見されることもあります。
1948年(昭和28年)、青森県西津軽郡車力村(現在のつがる市)にある七里長浜に、14枚の小判が打ち上げられるという出来事がありました。
この近くの海底では、大正時代初期にも小判3枚が、1955年(昭和33年)にはなんと30kgもある銅の板2枚が見つかっています。
江戸時代の1821年、金・銀・銅を載せた南部藩の船がこの付近の沖合で沈んだという記録が残っているため、これらの財宝はこの船に積まれていたものと考えられます。
1957年には、伊豆大島でも漁師がカツサキ浜沖水深15メートルの地点で小判8枚を発見しました。
この出来事はたちまち噂となり、漁師たちはこぞって埋蔵金探しを行うようになります。
その結果、海底から小判90枚、一分金43枚、金額にして2000万円相当が見つかりました。
伊豆大島付近では江戸時代に、1663年に津の「功天丸」が、1705年には宇和島藩の「第二伊予紋丸」が、そして1737年には「明神丸」という3隻の船が沈没したという記録があり、この小判は、このうちのどれかに積まれていたものだと思われます。
京都・聚楽第の埋蔵金
引用:http://www.kyotokanko.co.jp
昭和30年代、京都市上京区千本通りの聚楽第跡で水道工事を行っていたところ、地中から小判や一分金が見つかりました。
聚楽第といえば、安土桃山時代に豊臣秀吉が京都に建てさせた邸宅で、秀吉が政治を行う政庁の役割も兼ねていました。
聚楽第はたった8年で取り壊されてしまったため、現在でも謎につつまれている部分がありますが、その内部には家具調度にいたるまで黄金が使われ、豪華絢爛な造りだったといわれます。
そして、秀吉には、総額300兆円といわれる日本最大級の埋蔵金伝説が伝えられています。
豊臣家ゆかりの聚楽第で発見された埋蔵金は、多くの人々に豊臣埋蔵金発見への期待を抱かせました。
しかし、発見されたのは、慶長小判7枚に慶長一分金20枚で、今の価値にして1200万円ほどになりますが、どれも江戸時代のもので、秀吉との関連はないと結論付けられました。
この埋蔵金は江戸時代に商人などがここに埋めたものと考えられています。
志賀島・漢委奴国王印
引用:ameblo.jp
「漢委奴国王」の文字が刻まれたこの金印、歴史の教科書などで一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。
この金印は5世紀の前半に中国で書かれた後漢書東夷伝のなかで、後漢の光武帝が倭の国(当時の日本の呼び名)の奴国(なこく)の王にその身分を保証するために授けたといわれるものです。
漢委奴国王印は、福岡県の博多湾に浮かぶ志賀島で、江戸時代の1784年2月23日に発見されました。
これを見つけたのは甚兵衛という農民で、農作業の途中に田んぼの境界の溝を掘っていたところ、大きな石が出てきたため、その石をどかしてみると金印があったといわれます。
3月、この噂を聞きつけた郡奉行の津田源次郎が甚兵衛を呼び出し、金印は黒田藩(福岡藩)に献上させられることになりました。
その代わり、甚兵衛には白銀5枚(50枚という説もあり)が与えられたということです。
漢委奴国王印は、1954年に国宝に指定され、現在は福岡市博物館で保管・展示されています。
この金印には、出土したときに傷一つなく、保存状態が良すぎることから、後世の贋作ではないかという説もあります。
どちらにしても、発見者の甚兵衛は、当時の農民にとっては破格の報酬を受け取ったといえるでしょう。
熊本・九州最大の埋蔵銭
引用:kosen-kantei.jp
熊本県合志(こうし)市では、1986年(昭和61年)に個人宅から大量の古銭が発見されました。
敷地内にあった古い蔵を取り壊すときに出てきたもので、大量の寛永通宝をはじめ、仙台通宝、開元通宝などが混ざったもので、その合計は30000枚にも上りました。
純国産の寛永通宝で、これだけの量が一度に発見されたことはなく、見つかった埋蔵金の規模としても九州最大だといわれています。
古銭の価値は1枚あたり600~700円とされ、価値としては2000万円ほどになります。
しかし、発見者ははじめ、この埋蔵金のことを誰にも話さず、家の縁側で保管していました。
埋蔵金が世に出るきっかけとなったのが、翌年の夏のこと、畑で巨大なスイカが採れたため役場に報告して見に来てもらったところ、スイカより古銭のほうが目立ってしまったのです。
これを聞きつけた地方新聞に記事が掲載されることになり、埋蔵金発見のニュースが知れ渡ることになりました。
古銭の保管場所に困っていた発見者は、その後、埋蔵銭をすべて役所に無償で寄贈したということです。
平成の埋蔵金 富山の明治貨幣
引用:s.webry.info
埋蔵金のなかには、つい最近、平成になってから発見されたものもあります。
2002年(平成14年)、富山県小矢部市の工事現場から出土した口径30㎝の甕の中から、埋蔵金が見つかるという出来事がありました。
出てきたのは、小判12枚、二分金686枚、一分銀404枚、二朱金92枚、さらには明治初期の10円金貨が46枚、合計1295枚で、価値にして約3900万円とされました。
発見されたのは以前竹藪だった場所で、国土交通省が旧道を保存する工事を行うため、1年半ほど前に持ち主から買収したものでした。
国の土地であったため、半年間持ち主が見つからなければ遺失物法に基づき国の資産となる予定でしたが、元所有者が、自分の先祖が埋めたものに違いないと名乗りを上げました。
発見物のなかに明治時代の硬貨があったことから、それほど歴史的価値のあるものとは思われず、さらに古地図によって元所有者の先祖の蔵が明治時代からその場所にあったことが証明され、埋蔵金は元の所有者に引き渡されました。
埼玉・光明寺の埋蔵金
引用:machique.st
2002年は平成の埋蔵金当たり年といえる年で、埼玉県長瀞町の光明寺でも埋蔵金が発見されています。
2002年7月29日、真言宗光明寺の境内で排水管の埋設工事を行っていた業者が、土の中から瓶に入った小判38枚を発見しました。
発見された小判は、縦6㎝、横3㎝、重さ13gで、土を落とすと表面に「壱両」という文字が刻印されていたましたが、小判の種類が不明のため、時価は不明とされました。
住職の話によると、昔の住職が後継者のために残した埋蔵金だろうということですが、詳しいことは分かっていません。
埼玉・日本最大級の埋蔵銭
引用:www.sankei.com
2018年のクリスマス、12月25日に埼玉県蓮田市黒浜の「新井堀の内遺跡」で、瓶の中に入った大量の埋蔵銭が発見されました。
新井堀の内遺跡は、岩付城主・太田資正の家臣だった野口多門の館があったとされる場所で、2018年10月から県道建設工事に伴う発掘調査が始まり、戦国時代の堀や井戸・陶磁器などの遺物が見つかっています。
埋蔵銭の正確な数は分かっていませんが、瓶の大きさから、10万枚~20万枚と推定されています。
一度に出土した古銭の量としては、以前に神奈川県鎌倉市で出土した18万枚を超え、国内最大量になる可能性があります。
瓶の中からは、永楽通宝や開元通宝など19種類の古銭が確認されており、出土した古銭の年代から、埋められたのは15世紀以降と考えられています。
ほかにも、瓶の中からは「二百六十貫」と書かれた木簡も見つかっていて、もしここに書かれている数が正しいとすると、瓶には現代の量にして26万枚の古銭が入っていることになります。
埋蔵金の価値は、実際の古銭の量によっても変わりますが、約3000万円とされています。
2018年3月14~18日には、熊谷市の県文化財収容施設で、一般向けの特別公開も行われました。
まとめ
以上、日本における埋蔵金・財宝の発見事例を紹介してきました。
全国各地には、今も様々な形で埋蔵金伝説が残されていますし、そのなかにはもしかすると、本当の埋蔵金が埋まっていることもあるかもしれません。
江戸時代には、財産保全のために商人などが少量の小判を瓶などに入れて家の床下に埋めるという行為が、しばしば行われていたらしく、日本全国どこで埋蔵金が見つかってもおかしくないといえます。
日本全国でまだ見つかっていない埋蔵金の増額は150~200兆円という説もあり、まさに「黄金の国ジパング」といったところです。
もしかすると、あなたの住んでいる場所の下でも、埋蔵金が発見されるときを待っているかもしれません。