独裁者とは『絶対的権力を行使する支配者』のことです。
2018年現在で身近な例を挙げると、まさに北朝鮮の金正恩が独裁者と言えるのではないでしょうか?
しかし、世界の歴史上には北朝鮮の独裁者以上に卑劣な、そして凶悪な独裁者たちが存在しています。
今回は世界史に悪名を刻む独裁者の中でも、最も残虐な10人をご紹介しましょう。
10.オマル・アル=バシール
オマル・アル=バシールはスーダンの軍人、第8代大統領です。1989年にクーデターによって軍事政権を成立させ政権を掌握してから、現在に至るまでなんと30年に渡って国のトップの座に君臨し続けています。
その独裁ぶりは、米紙ワシントンポスト発行の週刊誌『パレード』が選ぶ「世界最悪の独裁者ランキング」という特集記事で、2005年~2007年度にかけて3年連続の第一位に選ばれたこともあります。
具体的には、2003年から続くダルフール紛争での集団虐殺(およそ40万人程度が虐殺)を先導したとされており、国際刑事裁判所から逮捕状を出されています。
しかし、バシールは2009年にカタールで開催された第2回南米・アラブ諸国首脳会議に出席しており、常任理事国の中国とロシアの後押しを受けて、国際刑事裁判所によるバシール大統領の逮捕決定を保留する権利を行使するよう訴えたことから、逮捕できる可能性は低いとみられます。
9.アウグスト・ピノチェト
南米チリの軍人、第30代大統領であるアウグスト・ピノチェトは、1973年に史上初の社会主義政権である前政権からのクーデターに成功し、たった1日で政権を掌握しました。
クーデター直後に戒厳令が敷かれ、スタジアムに集められた人民連合系の多数の市民が容赦なく虐殺されました。クーデター後1日で確認された遺体は2,700体にも上るそうです。
また、誘拐・投獄に伴う拷問も広く行われたとされ、強制収容所に送られたり、拷問を受けたりと人権侵害を受けた人々は10万人とも推定されます。
1973年から18年に渡って独裁政治を続けたピノチェトですが、任期延長を問う国民投票に惨敗し、1990年に大統領を辞任しました。
しかし、なんとピノチェトは大統領を辞任した後も、陸軍総司令官として隠然たる影響力を保持し、1998年に陸軍を退役した後には終身上院議員にも就任しています。
2000年以降になると、市民団体等により虐殺などの罪で何度も告発されますが、いずれも逮捕されるまでには至らず、最終的に2006年12月10日に心不全のためサンティアゴの軍病院にて91歳で死亡しました。
8.フランソワ・デュヴァリエ
フランソワ・デュヴァリエはハイチの元大統領です。
医師だった彼は、チフスやイチゴ腫、マラリアなどハイチの貧民たちを長年苦しめていた疫病への取り組みから「パパ・ドク」という愛称で呼ばれていました。
その後、政治家の道を歩み始めると、1950年に軍事クーデターが起こり、1957年に行われた大統領選挙に勝利し大統領に就任しました。
しかし、権力を掌握したデュヴァリエは独裁色を強め、政敵を粛清し、軍を弱体化させただけでなく、個人崇拝や、地方の民兵組織や、ブードゥー教を利用した圧政を敷いたことにより3万人以上のハイチ人が死亡したと言われており、それを逃れて他国へ亡命した知識人たちがハイチには戻ることはありませんでした。
デュヴァリエは1964年に息子に大統領の地位を引き継がせ、自身は終身大統領となり、1971年に64歳で亡くなるまでハイチを支配し続けました。
7.ロバート・ムガベ
ロバート・ガブリエル・ムガベは、1980年に首相に就任して以来、37年間に亘って独裁者としてジンバブエに君臨した政治家です。
その経歴は一見すると華々しく、ジンバブエ首相(初代)、大統領(第2代)、アフリカ統一機構議長(第35代)、アフリカ連合議長(第13代)、ジンバブエ・アフリカ民族同盟代表、ジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線代表(初代)などを歴任しています。
当初は大統領として順調に経済運営を行い、教育や医療に資金を充てたことで低い乳児死亡率とアフリカ最高の識字率を達成し、「ジンバブエの奇跡」として絶賛されました。
しかし、白人農場の強制収用など自身の政策の失敗から、ハイパーインフレを起こし、国内の失業率は80%以上を記録。国内の経済はたちまち崩壊し、貧富の格差が拡大しました。
その後の敗北したとみられる大統領選挙の結果を長期にわたり公表せず、それを批判した野党勢力や支持者に徹底した弾圧を加え、政権トップの座に居座り続けました。
更にその独裁者ぶりは私生活でも健在で、700万人の国民が飢餓状態であるにも拘らず、120万ドルの豪華誕生パーティーを計画したり、香港の住宅街にある400万ポンド(580万ドル)の豪華な邸宅を購入したりと、極めて豪華な生活を続けています。
6.イディ・アミン・ダダ
イディ・アミン・ダダはウガンダの軍人であり第3代大統領です。
ウガンダ軍参謀総長当時の1971年1月、イギリス連邦首脳会議のため首相が外遊中に軍事クーデターを起こし政権を掌握しました。
その後は、クーデターを支持したイギリスやアメリカをはじめとする西側諸国などと友好的な関係を築き投資や企業の進出を受けますが、やがて独裁化が進むとともに前大統領支持派を弾圧し、アジア人を国外追放、国民30万人以上を虐殺したとして「黒いヒトラー」、「アフリカで最も血にまみれた独裁者」と称されました。
その結果、国際的な批判を浴びただけでなく、国内反体制派からの攻撃を受け、軍部の離反もあり失脚を余儀なくされました。
最終的に1979年に亡命したサウジアラビアで多臓器不全による合併症で死去。生涯ウガンダに帰国することはありませんでした。
5.金正日
金正日(キム・ジョンイル)は日本の近隣国家で最大の脅威である北朝鮮の元最高指導者です。
北朝鮮を建国した金日成(キム・イルソン)の長男であり、1994年に同国の最高指導者の地位を父より継承、その後、2011年に死去するまで17年間に亘って北朝鮮の最高指導者として朝鮮労働党中央委員会総書記、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員長、朝鮮人民軍最高司令官などを務めました。
金正日の独裁体制では、独裁体制に意を唱えるものは家族全員が強制収容所に連行されるなど100万人以上の国民が強制収容所に収容され、拷問や処刑によりその多くが死亡。更に餓死者は300万人にものぼると言われています。
また、米誌パレード(ワシントンポスト)やフォーリン・ポリシー(カーネギー国際平和基金)など複数の「世界最悪の独裁者ランキング」で何度も第1位に選出されています。
4.ポル・ポト
本名サロット・サル、通称ポル・ポトはカンボジアの独裁者です。
1929年に生まれたポル・ポトはフランス留学中に元ソビエトの独裁者であるスターリン(2,000人以上を虐殺)の思想の影響を受け、非常に過激な共産主義者(平等で格差・階級のない社会を目指す考え方)になりました。
彼は帰国後政権を握ると次の行動を起こしました。
①自国の食糧生産を上げるため都市部に住む国民を農村に強制連行。
②共産主義に知識・技術は不要と考えていた為、「国の発展のために知識人、医者、職人、教師などがいたら名乗り出て欲しい。君たちの知識、技術が必要なのだ」と発表し、国内外からそれを信じて集まった者を全員虐殺。
③メガネをしている者も頭が良さそうなので全員処刑。
④土地や財産をすべて没収し、貨幣は廃止。
⑤大人を虐殺して、残った子供は洗脳し、一部は少年兵やスパイとして育てる。
⑤少しでも不平不満を呟く住民は強制収容所へ連行し拷問や処刑。
⑥情報を封鎖するため他国との貿易は禁止。つまり鎖国。
彼がカンボジアの政権を握ってから、わずか4年間で国の人口の1/3に近い230万人以上を虐殺したと言われ、度々史上最悪の独裁者とされています。
ポル・ポトは晩年「自分の良心に恥じることは何一つしていない」と語っています。