オカルト

世の中に存在する本当に不思議な場所20選(世界10ヶ所+日本10ヶ所)

この世界には未だに何だかよくわからない不思議な場所がいくつもあります。

それらの場所は、よくわからないからこそ昔から多くの人々の興味を引いてきたとも言えます。

今回はそんな世界の不思議な場所を10ヶ所+日本の不思議な場所を10ヶ所ご紹介します。

ストーンヘンジ

ストーンヘンジはロンドンから西に約200kmのイギリス南部・ソールズベリーから北西に13km程に位置する環状列石で、1986年には世界文化遺産に登録されています。

円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなる世界で最も有名な先史時代の遺跡で、紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えられています。

そして、それを囲む土塁と堀は紀元前3100年頃まで遡るといいます。

馬蹄形に配置された高さ7mほどの巨大な門の形の組石(トリリトン)5組を中心に、直径約100mの円形に高さ4-5mの30個の立石(メンヒル)が配置されています。

夏至の日に、ヒール・ストーンと呼ばれる高さ6mの玄武岩と、中心にある祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったのではないかと考えられています。

また、当時としては高度な技術が使われており、倒れないよう安定させるため石と石の間には凹凸があります。

遺跡の目的については、太陽崇拝の祭祀場、古代の天文台、ケルト民族のドルイド教徒の礼拝堂など、さまざまな説が唱えられているが、未だ結論はでていません。

ストーンヘンジ調査の歴史

初期の多くの歴史家の説明は、超自然的な言い伝えに影響されていました。魔術師マーリンが巨人を使役して作らせたとか、マーリンがアイルランドのキララウス山から魔法で運んできたなどという伝説もあります。

このほか、悪魔が作ったとするものもあります。ハンチントンのヘンリーが、1130年頃この遺跡に最初に言及しました。そのすぐ後に、モンマスのジョフリーが、アーサー王と関連付ける架空の記録を最初に記したことにより、この遺跡は中世ヨーロッパのロマンスに取り込まれていくことになります。

この遺跡を調査する最初の学術的試みは、1740年頃、ウィリアム・スタッカレーによって行われました。スタッカレーはこの遺跡をドルイドの手によるものだと誤って結論付けました。

しかし、彼はこの遺跡の測量図を残した最初の人物でした。この図があったために、形状と大きさについてのさらなる分析が可能になり、この業績により、彼は石の配置が天文学または暦学上の役割をもっていることを示すことができました。

19世紀の転換期までに、ジョン・ラボックは、付近の古墳から発見された青銅器に基づき、この遺跡が青銅器時代のものであることを示しました。

ストーンヘンジは不朽ではないため、他の大多数の歴史的遺跡と同様に、積極的な保全が必要です。

20世紀の始めまでには数多くの石が倒れたり傾いたりしていましたが、骨董品収集家の図面の情報に基づき、注意深く元の位置に戻す保全作業が行われました。

ロスリン礼拝堂


引用 http://little-puku.travel.coocan.jp
ロスリン礼拝堂は英国スコットランドの都市エディンバラの南郊、ロスリンにある礼拝堂です。15世紀にテンプル騎士団に属していた貴族ウィリアム=セント=クレアにより建造された。ケルトやテンプル騎士団をはじめ、さまざまなモチーフの彫刻が施されています。 映画「ダ・ヴィンチ・コード」のロケ地となったことでも知られています。

内部に隙間なく施された美しく繊細なレリーフの中でも、コロンブスの新大陸到達前の1446年にこの礼拝堂が建てられたにも関わらず、当時アメリカにしかなかったトウモロコシやサボテンなどの植物や作物をモチーフにしたものがあったり、ケルト神話の豊穣のシンボルでもある「グリーンマン」が100体以上も彫られていたりと、解明されていない謎が数多くあります。

ロスリン礼拝堂礼拝堂、となっていますが、当初は、いわゆる礼拝のための建物ではなかったとされています。

これは、建主のサー・ウイリアム・セント・クレアが、テンプル騎士団、そして、秘密結社フリーメイソンに所属していたことから、仲間内の集会に使うために建てたと言われているからです。

ロスリン礼拝堂と坂本竜馬

「米欧回覧実記」に明治4年、岩倉具視と伊藤博文一行による岩倉視察団がロスリン礼拝堂に訪れた記録があります。なぜ岩倉視察団がわざわざスコットランドのロスリン礼拝堂まで行ったのか?それは坂本龍馬に会うためだといいます。

土佐藩を脱藩した浪士であった坂本竜馬がなぜ薩長同盟を成功させられたのか?それは竜馬の背後に武器証人トーマス・グラバーがいたからだとされています。

フリーメイソンの助けにより竜馬は暗殺を逃れ、この地に逃げ延びたと伝えられています。

エジプトのピラミッド

世界的にも有名な観光地であるエジプトのピラミッドですが、確認できているだけで118基あります。

ギザにあるクフ王のピラミッドは、エジプトのピラミッドで最も大きいものであり、世界の七不思議の一つに数えられています。

エジプトのピラミッドの特徴

メンカウラー王、カフラー王、クフ王、三つのピラミッドが有名ですが、これらのピラミッドでオリオン座と同じ星の並び方が再現されています。

また過酷な砂漠の真ん中にあるにも関わらず、ピラミッド内部の温度は快適な約20℃に保たれています。

またピラミッド内の磁場を調査したところ外部の磁場とは異なる波形が確認されています。

ピラミッドの謎

ピラミッドには多くの謎が存在します。

まず、ピラミッドは正確に東西南北を向いて設計されており、その理由はわかっていません。

また、巨大な石材をどのようにして積み上げたのかも謎とされています。

さらにピラミッドの石と石を接着する面には何かしらの漆喰が使われていますが、それがどこから手に入れられたものなのかはわかっていません。

科学的な検査により、物質の構成は判明していますが、それをつくることは実現していません。

さらにピラミッドは大きなものでは完成に200年近い歳月がかかったとされていますが、そもそもどうしてピラミッドが作られたのかということも分かっていません。

ピラミッド宇宙人関与説

ギザのピラミッドなど多くのピラミッドは高さと長さが非常に緻密に計算されています。

また、石材をどのようにして積み重ねたかも謎とされていることから古代に地球にやってきた宇宙人によって造られた、もしくは宇宙人に手助けされて古代人が造ったのではないかともいわれています。

それだけピラミッドは高度な建築技術をようする遺跡だといえます。

カッパドキア

1963年、トルコのネヴシェヒルに住むある男性が、自宅の壁を壊していました。その際に謎めいた部屋を発見します。

男性が掘り続けると、さらに洞窟のような部屋がいくつも連なる込み入ったトンネルが現われました。こうしてカッパドキアは発見されました。

カッパドキアは精巧に作られたこの地下通路と部屋からなっています。

さらにいくつもの入り口、通気孔、井戸、縦横無尽につながる通路があり、何千年も前にカッパドキアの岩からできたたくさんの地下都市のひとつとなっています。

地下都市の収容可能人数は100万人とされています。何世紀もの間、埋もれたままだったこの地下都市が地下深くに広がっています。

カッパドキアの謎

カッパドキアの謎は誰がここまで精密な地下都市を作ったのかということです。

キリスト教の迫害を逃れたものが作ったという説や古代ローマの共同墓地だったという説、異星人により作られたものという説まで、様々な説が唱えられています。

キリスト教説は4世紀ごろローマ帝国に迫害された初期のキリスト教修道士がこの地に逃れ、ローマ帝国でキリスト教が公認されると修道僧たちの修業の場となりました。

8世紀にはセルジューク・トルコの支配下にくだることとなり、彼らは地下に住む場所を求めたという説です。

ギョレメ谷周辺には30以上の岩窟教会があることからもこのことがわかります。

また、彼らが地下都市を造った張本人なら、岩窟教会に残る美しく色鮮やかなフレスコ画を残したという高度な技術を持っていたというのも根拠とされています。

しかし、なぜ、岩窟にフレスコ画を残しているのに地下都市には描かなかったのか?

彼らだけでこれだけ大規模な地下都市を造れたかのか?

そもそも彼らにそんな大きな都市が必要だったのか?

なぜ要塞としての機能は備わっているものの、人が生活していた形跡が確認できないのか?といった謎も残されています。

カッパドキア核シェルター説

カッパドキアを作ったのはヒッタイト人であるという説があります。

ヒッタイト人は『旧約聖書』に彼らはテヘ人という名称で登場しています。

テヘ人はこれまで存在事実が確認されておらず、伝説的な架空の人物として扱われていました。

しかし、1906年にドイツ人により、ボガズ・キョイの廃丘で遺跡が発掘されたことによりヒッタイト人が実在していたことがわかりました。

彼らは紀元前2000年には存在したといわれ、初めて鉄器を使うなど高度の文明を持つ民族であることがわかっています。

いつアナトリアにやってきてどのような道を辿り高度な文明を身に着けたかなど詳しいことも謎のままですが、カッパドキアの地下都市との関係があるとされています。

デリンクユにある教会と呼ばれる部屋はヒッタイトの紋章と同じクローバーの形をしており、岩に彫り込んだひき臼などには彼らの人工遺物が発見されています。

なぜヒッタイト人がここに巨大な地下都市を築いたのかということについて、核戦争に備えて作ったシェルターという説があります。

ヒッタイト人は紀元前1200年ごろに突如として消滅しました。

さらに彼らが絶滅した後、500年もの間アナトリア高原には、人が住んだ形跡がなく、高度な文明を持っていたヒッタイト人が滅亡に追い込まれたという破壊の痕跡すら残されていません。

しかし、最近になってヒッタイト帝国が、考えられないほどの高熱により破壊されていたことが分かりました。

古代核戦争説を唱えた日本人の橋川卓也氏らは、アナトリア高原で核戦争が起こり絶滅したとの驚くべき仮説を発表しています。

さらに奇妙な形をしたカッパドキアも浸食によりこのような形になったのではなく、核爆発の凄まじい高熱によって出来たと主張しています。

バミューダトライアングル

バミューダトライアングルは、フロリダ半島の先端と、大西洋にあるプエルトリコ、バミューダ諸島を結んだ三角形の海域。昔から船や飛行機、もしくは、その乗務員のみが消えてしまうという伝説が存在します。

通過中の船舶や飛行機が突如何の痕跡も残さず消息を絶つ海域とされており、消息を絶つ直前にコンパスや計器の異常等の兆候があるとされています。

100年以上前から100を超える船や飛行機、1000以上の人が消息不明となっているといわれています。

ブラックホール説

バミューダ海域には宇宙で見られるようなブラックホールが密かに存在し異世界と通じていて、それに飲み込まれてしまうと戻れなくなるのだろうという説。

確かに残骸が残ることはないだろうが、そもそも周囲の海水はおろか大気すらも際限なく吸い込まれてしまうと考えられるため、少なくとも現代の科学で証明できるような証拠は存在していません。

メタンハイドレート説

船の沈没についてはメタンハイドレートによってメタンの泡が大量に瞬時に発生し海水とは密度が異なるのでそれによって船の浮力を失わせてしまいます。海中で爆発が起き、大きな穴が開きそれで、船が吸い込まれてしまいます。

航空機の墜落 - エンジンがメタンを吸い込み酸欠によって不完全燃焼を起こし、出力低下から揚力を失い墜落してしまいます。

この現象はレシプロ、タービン機共に説明可能で爆発が起きたときに電磁波を発するため、それでレーダーやコンパスがおかしくなり、制御不能となり、墜落するとされています。

航空機や船舶の残骸が発見されない理由はメタンガスの放出により舞い上がった土砂が放出が止む際に沈んだ残骸の上に堆積してしまうため残骸が発見されないとも考えられていいます。

マイクロバースト説

冷気の塊が海面に落下し、バースト(破裂)したように強風を引き起こす現象という説。これは従来のレーダーに捉えられず、短期間で収まるため、消滅事件の原因として注目されました。

ただし、マイクロバーストは低空でしか発生しないため、高空を飛行する飛行機で事故が発生する理由は説明できていません。

ジョージアガイドストーン


引用 http://chahoo.jp

ジョージアガイドストーンとは1980年にアメリカ合衆国ジョージア州エルバート郡に建てられた花崗岩によるモニュメントです。

8つの言語(英語、スペイン語、スワヒリ語、ヒンディー語、ヘブライ語、アラビア語、中国語、ロシア語)で書かれたメッセージ「10のガイドライン」で知られ、その内容が陰謀論的な憶測を呼んでいます。

ジョージアガイドストーンの内容

1.大自然と永遠に共存し、人類は5億人以下を維持する

2.健康性と多様性の向上で、再産を知性のうちに導く

3.新しい生きた言葉で人類を団結させる

4.熱情・信仰・伝統・そして万物を、沈着なる理性で統制する

5.公正な法律と正義の法廷で、人々と国家を保護する

6.外部との紛争は世界法廷が解決するよう、総ての国家を内部から規定する

7.狭量な法律や無駄な役人を廃す

8.社会的義務で個人的権利の平衡をとる

9.無限の調和を求める真・美・愛を賛える

10.地球の癌にならない - 自然の為の余地を残すこと - 自然の為の余地を残すこと

ジョージアガイドストーンと陰謀論

陰謀論とした取り上げられるのは

1.大自然と永遠に共存し、人類は5億人以下を維持する

の部分です。これが人口削減計画を表すとしています。また2015年夏、アメリカで市街地を舞台にした、人類史上最大級の軍事演習が行われました。こういった演習は、通常、施設内での実施に留められていますが、同時にマスコミに対して厳しい報道管制が敷かれ、一般市民が撮影した貴重な映像が残されています。

これらの映像から「ジェイド・ヘルム」という大規模軍事演習が行われていたことが明らかになりました。

ジェイドヘルムとジョージアガイドストーン

「ジョージア・ガイドストーン」は単なるモニュメントなどではなく、高度に政治的な意図を込めて構築されたといいます。

ジョージアガイドストーンにあるような人口削減計画をアメリカ政府が軍を動員して実行に移せば、世界中がパニックに陥り、あちこちで削減されようとする側の人々の暴動が起きると予想されます。

「ジェイド・ヘルム」は、その時群衆を制圧するための訓練ではなかったのかと言われており、

そう考えれば2015年夏の「ジェイド・ヘルム」作戦時の、「大規模な停電」「携帯電話の不通」「一般市民の連行」、全てに説明が付くと言われています。

 

イースター島


イースター島は太平洋に浮かぶ絶海の孤島で、世界遺産であり、世界有数の観光地として知られています。イースター島にある石造彫刻・モアイ像は発見された当時から多くの学者が研究を続けていますが、さ誰が、いつ、何のために、どのように造ったものなのか、何一つ解明されてはいません。

絶海の孤島には887体ものモアイ像が並び、それらは全て海を見つめ、さらには地中深くには地上部分の何倍にもなる胴体が埋められています。最も大きいものは高さ20メートル、重さ90トンにも達しています。

モアイ像の謎

これだけ巨大なモアイ像を、島の人々は一体どうやって造り、運んだのだろうか?

島には鉄の道具はなかったとされています。鉄器なくして、硬い石を切り出し、成形することはできません。一方、運搬方法についてはアメリカの考古学者ウィリアム・マロイが、木製のソリを使った仮説を提唱しています。

ところが、この方法では製作と運搬だけで1体につき約63年もかかってしまうことがわかりました。島には1000体近い像があることから、すべてにかかった時間は単純計算で6万3000年という膨大なものになります。

さらに運搬には大量の木材と強いロープが必要となりますがイースター島にはそれらをまかなえるだけの木々は存在していません・

つまり、イースター島の人々にはモアイ像を作ることは不可能だったということになります。

それでは誰がモアイ像を造ったのか? 宇宙考古学者のエーリッヒ・フォン・デニケンによれば、地球外から来訪した知的存在の可能性が考えられるといいます。

彼らが超近代的な道具を駆使してモアイ像を造ったといいます。

確かに、モアイ像は原型となるようなものが見つかっておらず、イースター島では突然出現しています。これが地球外知的生命体によるものであれば、その突然さも説明できます。

しかし証拠はないため現在でも真相は謎のままです。

バチカン秘密記録保管所

約3万5000点の文書が所蔵されているローマ教皇庁のバチカン秘密記録保管所は17世紀にパウルス5世によりバチカン図書館から分離され、外部からの閲覧は固く禁じられ内部の極一部の学者のみが可能となっていましたが、1881年にレオ13世によって年に100人程度の外部研究者にも公開されています。

また秘密(Secret)と冠していますが、実際には私的(private)の意味に近く、歴代教皇の私的な文書が多くコレクションされています。しかしここにはキリストに関する秘密情報や、ファティマ第三の予言に関する情報が眠っているとも噂されています。

バチカン秘密記録保管所の歴史

バチカン秘密記録保管所の設立は1612年で、保管所は1881年まで公開されることはありませんでした。1881年にレオ13世が公開を許可しましたが、それでも、キリスト教研究者のみに限定していました。

それから徐々に規制は緩くなっていきましたが、ジャーナリスト、学生、素人の歴史研究者たちの立ち入りは厳しく制限され、バチカンの厳しい基準をパスした公認の学者でも入場は一日に3回と決められていました。

2012年、バチカンは100点の文書の複写の出版を認めました。保管所には80キロにわたる棚があるというのだから、まだまだ多くの謎が眠っていると噂されています。

公開された文書にはマーティン・ルーサーを破門したレオ10世の大勅書、ガリレオの異端審問の記録、クレメンス7世にあてられたヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンの離婚を認めるよう嘆願する手紙、スペインとポルトガルを分けた教皇子午線に関する文書などもあります。

マチュピチュ

マチュピチュは古代インカ帝国の遺跡で、マチュピチュは年老いた峰、という意味です。近年観光スポットとして人気を集めています。マチュピチュ遺跡を造ったのは、インカ第9代皇帝パチャクティ・インカ・ユパンキ(パチャクテクとも呼ばれます)と言われています。

彼はクスコ周辺に暮らす小さな集団に過ぎなかったインカを大帝国に押し上げた、建国の父ともいえる人物。

マチュピチュ遺跡以外にも、パチャクティは数々の優れた建造物を後世に残しました。サクサイワマン遺跡やオリャンタイタンボ遺跡、タンボマチャイ遺跡など、彼の功績は多くあります。

マチュピチュの謎

マチュピチュには水路や神殿、広場などが整備されていますが水路の水源は今現在でもどこにあるの分かっておらず、建物の建築に用いられた資材をどのように運搬したのかもいまだに分かっていません。

ナスカの地上絵

ナスカの地上絵は1939年6月22日動植物の地上絵は考古学者のポール・コソック博士により発見されました。

あまりにも巨大な絵が多く、空からでないとほとんどの地上絵の全体像の把握が難しいのが現状です。なぜこのような巨大な地上絵を描いたのかということが大きな謎の一つとなっています。

いつ作られたのか?

ナスカの地上絵の地上線には絵を描くために用いたとみられる木棒が残されているものがあります。

この木棒による年代測定の結果、ナスカの地上絵は今から1400年~2200年前頃のナスカ文化時代に描かれたことがわかっています。

地上に引かれた線でしかないナスカの地上絵は、数千年にわたって消えずに存在していたことになります。

誰が作ったのか?

ナスカの地上絵が描かれた年代から、これらの絵は当時のナスカ市周辺で栄えていたナスカ文化時代の人々が描いたのではないかといわれています。

古代ナスカの人々は狩りや農業を行ない自給自足の生活をしており、宗教を非常に重んじていたことがわかっています。

現地からはナスカ文化のものとみられる着色済みの土器が数多く出土しており、そのほとんどは地上絵と同じく動物をモチーフにしていました。この事実も彼らがナスカの地上絵を描いた証拠のひとつであるとされています。

どうやって作ったのか?

  • 種まき応用法
    ナスカでは現在でも地上絵の作成が行われており、その際に用いられる方法がこの「種まき応用法」です。この方法では絵を描く際に複数の人間が横並びになって歩幅を合わせながら前進していきます。

    そしてこの歩幅によって距離を測定しながら均等に地上絵を描いていきます。この方法は全長50メートルほどの地上絵を手軽に描くことができますが、それ以上大きな絵を描くことには適していません。

  • 原画拡大法
    原画拡大法とは最初に地上絵のモデルとなる絵を描き、それを元にさらに大きな絵を描いていく方法です。モデルの絵には支点となる木棒を打ち込み、拡大したい長さの紐と絵を描くためのもうひとつの木棒を取り付けます。

    これによってモデルの絵と全く同じ線を拡大して描くことが可能になります。現在ではこの原画拡大法によるナスカの地上絵の再現を算数の授業に取り入れている小学校もあり、この方法を用いれば子どもだけでも巨大な地上絵が描けることが証明されています。

    しかし、原画拡大法は紐を真っ直ぐ張った状態でなければ描写できないため、この方法によって描くことができる地上絵は最大でも200メートルが限界であると考えられています。200メートルを超える地上絵については現在でも詳しい描き方がわかっていません。

何のために作ったのか?

  • カレンダー説
    ナスカの地上絵を構成する線には意図的に太陽の動きや季節の変化に合わせたと思われるものが存在することがわかっています。そのためナスカの地上絵は農業をするためのカレンダーとして描かれたのではないかという説があります。

    確かに地上線の中には夏至冬至の日没の方角や、雨季乾季の星の動きを表しているものが存在しています。しかし、カレンダーを全長数百メートル規模で描く必要はないため、この説には疑問が残ります。

  • 雨乞い説
    ナスカの地上絵は一筆書きで書かれているため、雨乞いの儀式の際に道路として使われたのではないかという説も存在します。ナスカ地方では昔から雨乞いの際に楽器を鳴らしながら道を歩くという習慣があり、この道がナスカの地上絵だった可能性があるのです。

    ナスカの地上絵の線付近では雨乞いの儀式に使用される貝殻の破片が見つかっています。そのため雨乞いの儀式のために巨大な地上絵を描いたのではないかという説が生まれたのです。

  • 食料管理システム説
    古代ナスカでは食料などの財産はすべて個人単位で管理されていました。そのため食料が流通するシステムがなく飢饉が起こりやすい状況だったのです。

    この問題を解決するために古代ナスカの権力者たちはナスカの地上絵の制作という公共事業を作ったのではないかという説です。労働者に支給するという建前で国中の食料を回収し、管理することで国が飢饉によって全滅することを防いだのです。

    公共事業は長期にわたる必要があったため必要以上に巨大な地上絵を描く必要がありました。しかし、100メートル規模の地上絵であっても先述した原画拡大法を使えば数十人で数時間もあれば完成してしまうため、長期的な公共事業になることはなかったのではという疑問が残ります。

  • 権力者の葬式説
    ナスカではピラミッドが発見されていることから、ナスカの地上絵も権力者の埋葬のために描かれたのではないかとする説です。古代ナスカで信仰された宗教では、人は死後に太陽に還るとされていました。

    そのため死んだ権力者を太陽へ導くため、もしくは死者へ贈るメッセージとしてナスカの地上絵が描かれたのではないかと考えられています。古代ナスカでは宗教的傾向が強かったため、この説は特に有力であるとされています。

  • 宇宙人のマーキング説
    ナスカの地上絵は当時の人々が目視できないものであったため、古代の地球に到来した宇宙人によって描かれたのではないかとする説です。ナスカの地上絵がUFO(未確認飛行物体)の発着場なのではないかという意見は古くから存在していました。

    宇宙人が地球を訪れた際にマーキングとしてナスカの地上絵を描いたと考えるならば、全長50キロメートルにもなる矢印や200メートル以上の地上絵の書き方がわからないことにも一応の説明は付くことになります。

次のページでは日本の不思議な場所を10ヶ所ご紹介します。

次のページへ >



-オカルト

Copyright© 雑学ミステリー , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.