社会

伝説の最強スパイと諜報機関13選

スパイとは、敵対勢力の情報を得るために諜報活動を行う者の総称で、諜報員や工作員、間者などという呼び方もあります。

現代ではスパイを情報機関の職員である機関員(インテリジェンスオフィサー)と、機関員に情報を提供する協力者(エージェント)とに分類します。

近代的なスパイ活動が本格化したのは第一次世界大戦ごろからだといわれていますが、それ以前にも人類の歴史の中ではあらゆる時代や場所で情報戦が行われてきました。

情報とは、ときとして人命や国家の存亡すら左右し、歴史を変えてしまうほど重要で危険なものです。

情報戦で有利になれない者が歴史の勝者になることはありえません。

そのため、スパイ達は常に血眼になって自分の国や勢力にとって必要な情報を追い求め、そのためにはどんな手段や危険も厭いませんでした。

もちろん、スパイであることが発覚すれば、命の保証さえもありません。

ここでは、歴史の陰で奮戦し、華々しい成果を成し遂げたり、あるいは、無念の最期を迎えたスパイ達をご紹介していきます。

 

伝説の女スパイ マタ・ハリ

引用:https://ja.wikipedia.org

マタ・ハリは第一次世界大戦において脚光を浴びた女スパイで、世界一有名な女スパイといわれています。

女スパイのことを「~のマタ・ハリ」と呼んだり、女スパイの代名詞的存在になっている女性です。

マタ・ハリは本名マルグリット・ゲルトルード・セレといい、1876年オランダのアムステルダムに生まれました。

マタ・ハリの父は裕福な石油商人でしたが、彼女が13歳のとき父の投資が失敗すると一家は困窮し、経済的自立を迫られたマタ・ハリは、新聞の結婚相手募集の広告に応募し、20歳も年上のオランダ軍将校と結婚します。

暁の瞳(マタ・ハリ)

しかし、二人の結婚生活はじきに破綻し、マタ・ハリは夫の赴任地であったジャワ島で習ったダンスを活かして、踊り子としてパリの舞台に立つようになります。

マタ・ハリはこのときの彼女の芸名で、インドネシア語で「暁の瞳」を意味します。

東洋人的なエキゾチックな容姿をしていたマタ・ハリは、それを利用して「インドのバラモンの家柄の出身」「インド寺院の踊り巫女」などの触れ込みでデビューしました。

惜しみなく観客に愛嬌を振りまき、ほとんど裸で踊っていた彼女は大人気を博し、ベルリンやウィーン、マドリードなどの大舞台に立ちました。

マタ・ハリは非常に恋多き女性で、彼女のファンとなった多くの著名人と情交を重ねたといい、ヨーロッパの名士たちと広い人脈を築いていきました。

マタ・ハリの恋とスパイへの道

しかし、第一次大戦が勃発すると、興業は行き詰まり、生活も苦しくなっていきます。

そんなとき、彼女はパリでフランス軍に属するロシア人将校と恋に落ちます。

しかし、彼は戦場で毒ガスにやられ、フランス東端のアルザスにある病院に入院します。

マタ・ハリは彼に会いに行こうとしますが、フランス政府の通行許可が降りません。

そのとき、彼女のもつ人脈に目をつけたフランス情報部が通行証の代わりにフランスのスパイとして働くよう彼女に提案しました。

スパイの報酬として100万フランが用意され、諜報活動の対象にはマタ・ハリのファンであったドイツの皇太子も含まれていたといいます。

計略と処刑

マタ・ハリはスペインでスパイ活動を行いましたが、彼女がスパイであることを見抜いたドイツ軍情報将校が、故意にフランスに解読されている暗号で「H-21には価値がある」という通信をドイツに送り、これがフランス軍に解読されました。

H-21とはマタ・ハリの暗号名のことで、彼女が裏切ってドイツについたと考えたフランス軍によって、マタ・ハリは軍法会議にかけられ、彼女のスパイ活動のせいでフランスの輸送船がUボートに沈められたとして死刑を言い渡されます。

1917年の銃殺刑の執行時、彼女を杭に縛り付けて目隠しをしようとした兵士に対し、マタ・ハリは、「触らないで! 目隠しも縄も必要ないわ!」と叫び、一杯のラム酒を口にし、気を沈めたといいます。

マタ・ハリは伝説的な女スパイですが、彼女が実際にどれほどのスパイだったのかについては諸説あり、大した活動はしておらず、ただ男性とベッドをともにしていただけのスパイ以前のただの踊り子だったという説もあれば、証拠がないのはそれだけ優秀なスパイであったからだという説もあり、彼女の存在をよりミステリアスなものにしています。

デュケインのスパイ網

引用:https://en.wikipedia.org

デュケインのスパイ網とは、第二次大戦中に摘発されたフレデリック・ジュベール・デュケインによって率いられたアメリカ国内におけるナチス・ドイツのスパイネットワークで、アメリカ史上最大のスパイ事件です。

摘発されたスパイの数は33名で、その多くはドイツ系アメリカ人でした。

彼らはアメリカとドイツの戦争が起こった時に有利になるよう、情報収集を行ったり、有事の際にはサボタージュ活動を展開するべく、アメリカ各地でさまざまな職業に就いていました。

ある者はレストランを経営しながら客から情報を収集し、ある者は大西洋を渡る連合軍船舶を監視するために航空会社に勤務したりしていました。

このスパイ網がよって摘発されるきっかけとなったのが、FBIの二重スパイとして活動していたウィリアム・G・セボルドの存在でした。

ドイツ生まれのセボルドはアメリカの航空機工場に勤務しており、故郷に残した母親に会うためにドイツに帰った際にゲシュタポのエージェントによりスパイ活動への勧誘を受けました。

家族の身の安全と引き換えに一旦はスパイになることを承諾したセボルドでしたが、すぐにドイツのアメリカ領事館に駆け込んでこのことを打ち明け、FBIに協力を申し出ました。

ドイツで暗号文やマイクロフィルムの取り扱いなどなどスパイの基礎を教えられたセボルドは、アメリカに戻るとドイツの手引きでスパイ活動を開始し、FBIは彼を通じて2年近くスパイ網の通信を監視し、スパイの居場所や伝達される情報の調査を行っていました。

摘発されたスパイ達は1941年12月までに全員が有罪判決を受け、合計して300年以上の懲役刑を宣告されました。

松尾芭蕉スパイ説

引用:https://twitter.com

松尾芭蕉といえば「おくのほそ道」で知られる江戸時代の俳人で、「松島や~」の句で有名な人物であることは多くの人がご存じでしょう。

この松尾芭蕉が、実はスパイだったという説があるのはご存知でしょうか。

これによると、松尾芭蕉は実は忍者で、幕府の密偵として各地を巡っていたというのです。

松尾芭蕉は現在の三重県伊賀市、当時の伊賀の国の出身で、母親は百地三太夫の子孫で芭蕉も忍者の家系の出身です。

さらに、奥の細道の旅程は600里(2400㎞)におよび、芭蕉はこれを1日十数里のペースで進んでいます。

江戸時代の人は現代人よりも歩くペースが速かったといわれますが、芭蕉はこのとき45歳で、当時でもこの年齢でこのペースはかなりの健脚といえ、これも芭蕉が忍者だったからではないかと言われています。

旅の日程についても奇妙な点があります。

例えば仙台藩に入ったときには、黒羽で13泊、須賀川で7泊もしているのに、絶賛した松島は1句も詠まずに1日であとにしています。

これは、目的が句を詠むことではなく、仙台藩の内部事情を調べるためだったからではないかといわれています。

芭蕉の弟子である曾良の日記には、仙台藩の軍事拠点である瑞巌寺や藩の商業港である石巻港を執拗に見物していたことが書かれています。

さらに、旅には巨額の旅費もかかったはずで、これも幕府に隠密として雇われ、資金を受け取っていたのではないかといわれます。

残念ながら、松尾芭蕉が幕府のスパイであったという確たる証拠はありませんが、誰もが知ってる有名人にこのような話があるというのは驚きではないでしょうか。

日本共産党を壊滅させたスパイM

 

引用:http://shibayan1954.blog101.fc2.com

スパイMは、本名を飯塚盈延(みつのぶ)といい、戦前の日本共産党に所属し、幹部でありながら特高警察と通じ、内部から組織を崩壊に導きました。

戦前の日本共産党は大正11年に結党され、当時は非合法組織でした。

そのため、組織を潰そうとする特高警察との間では常に死闘が繰り広げられ、党員たちが一網打尽にされる事件が何度も起きていましたが、そのたびに残った党員たちによって再建され、しぶとく生き延びていました。

このイタチごっこのなかで、党の再建時に特攻の息のかかった人間を党内に送り込み、その男を中心に党を再建させればよいのではないかという案が生まれ、その話に乗ったのが党内では松村と名乗っていた飯塚でした。

スパイMの誕生と破壊工作

ちょうど満州事変が起きた昭和6年ごろから、飯塚はスパイMとして特高のために働きはじめます。

飯塚が党員から松村のイニシャルをとってMさんと呼ばれていたことが、スパイMという名前の理由です。

飯塚はモスクワへの留学経験があり、他の多くの党員たちにとってソ連帰りという肩書は絶大な威光をもっていました。

スパイMとなった飯塚がはじめに手をつけたのは、共産党とソ連コミンテルンとの関係を絶つことでした。

スパイMは当時の上海コミンテルンの駐在員だったイレール・ヌーランの情報を当局に渡し、ヌーランは中国政府に逮捕されてしまいます。

次にスパイMは党自体の破壊工作に手をつけました。

まず、資金調達のためと称して非合法手段を行うための「戦闘的技術団」という党の裏組織を立ち上げます。

この組織は、強盗・詐欺・恐喝・麻薬密売・美人局など金のためならどんな手段も厭いませんでした。

こうした事件により、共産党は極左犯罪集団というイメージを世間に植え付けるのが彼の目的でした。

さらに、スパイMは自分の意に沿わない幹部をスパイに仕立て上げ、リンチの末に殺害するという事件も起こしています。

日本共産党の壊滅

こうして徐々に弱体化した党を始末する最後の仕上げとして、スパイMが用意したのが昭和7年10月、熱海で開催された共産党の全国代表者会議でした。

会場である熱海の伊藤別荘もスパイMが選んだ場所で、事前に連絡を得ていた特高は100名を動員し、建物を取り囲み、防弾チョッキを着用した決死隊と呼ばれる部隊が突入して、中にいた党員たちを次々と検挙していきました。

会議に出席しなかった党員たちも全国で検挙されていき、12月までに党員1500人が捕えられ、共産党は壊滅しました。

党員たちは逮捕されたメンバーの中に飯塚がいないことから、ようやく彼の正体に気づきました。

共産党はその後、日本の敗戦まで復活することはありませんでした。

飯塚は特高から10000円以上の手切れ金を渡されて、満州に渡り、終戦のどさくさに紛れて名前や本籍まで変えてしまうと、その後は北海道で暮らしました。

飯塚は自分が売った共産党員や、用済みになった自分を処分しようとする特高警察を恐れていたようです。

それにしても、飯塚はなぜこのようなことをしたのでしょうか。

飯塚は生前、娘に「共産主義そのものはいいんだけど、主義者がいけない、やり方がよくない」と語っていたといい、ソ連の現実を直に見てきた彼だからこそ、思うところがあったのかもしれません。

近衛内閣のブレーン 尾崎秀実

引用:https://www.asahi.com

尾崎秀実(ほつみ)は朝日新聞の記者であり、近衛文麿内閣のブレーンとして、政界や言論界に大きな発言力をもち、日中戦争から太平洋戦争初期にかけて軍部や政府の中枢に接触し影響を与えた人物といわれています。

尾崎は共産主義者であり、特派員として赴いた上海でソ連スパイのリヒャルト・ゾルゲと出会うと、ゾルゲ・グループに所属し、暗号名「オットー」としてスパイとして活動を行いました。

尾崎はゾルゲの協力者として、近衛文麿や西園寺公望、犬養健など政府中枢の要人からの情報をゾルゲに伝えるとともに、第1次近衛内閣が成立すると、近衛の側近として日中戦争の講和・不拡大方針に反対し、日本に与えられた道は戦って勝つことだけであるとして戦争拡大を主張しました。

これは、「国民政府を相手とせず」として自ら中国との講和の道を閉ざした第一次近衛声明にも影響を与えたとされ、日中戦争を泥沼化させ、日本の国力を削ぐ尾崎の工作は奏功したといえます。

尾崎の存在がなければ日中戦争以降の日本の歴史も今とは変わっていたかもしれません。

1941年10月、グループの首謀者であるゾルゲの摘発とともにスパイであることが発覚し、尾崎は逮捕され、1944年11月に絞首刑に処せられました。

尾崎は自分がスパイであることを完璧に秘匿していて、彼の正体は、同僚はもちろん妻にさえ逮捕されるまで知られることはありませんでした。

リヒャルト・ゾルゲ

引用:https://www.sankei.com

リヒャルト・ゾルゲは、ソ連のスパイであり、ゾルゲ事件と呼ばれる日本史上最大といわれるスパイ事件を起こした首謀者として知られる有名なスパイです。

独ソ戦において、ゾルゲのもたらした情報がソ連に大きな貢献を果たしました。

ゾルゲは、大学を卒業後、1919年に結成されたドイツ共産党に入党すると、モスクワへ派遣され、軍事諜報部門に配属されます。

上海での活動

アメリカやイギリスでの活動を経て、1930年、ゾルゲはドイツの有力紙である『フランクフルター・ツァイトゥング(フランクフルト総合新聞)』の記者という肩書を得て、上海に派遣されます。

当時の上海には大国の租界が多く存在し、そのなかで活動するスパイの数も多く、ソ連もその諜報網の強化を目指していました。

「ラムゼイ」というコードネームを与えられたゾルゲは、上海でゾルゲ・グループと呼ばれるスパイグループを組織し、コミュニズムの指導や中国に派遣されていたドイツ軍事顧問団の調査などを行いました。

日本での活動

1933年からは、活動の場所を日本に移し、フランクフルター紙の東京特派員にしてナチス党員という肩書で、横浜に居を構えました。

日本通のナチス党員として知られる存在となったゾルゲは、駐日ドイツ全権大使であるオイゲン・オットの信頼を勝ち取り、第二次大戦開戦前にはオットの私的顧問という地位を得て、公文書を自由に見ることができるようになっていました。

日本共産党とは接触せず、ロシア語の使用も控えていたゾルゲは駐日ドイツ軍武官やゲシュタポの信頼を得ることにも成功します。

ゾルゲは、上海時代にアメリカ人女性左翼ジャーナリストで彼女自身もソ連のスパイであったアグネス・スメドレーと知り合いになりました。

ゾルゲは女性の同志を得るために、まず性的関係をもつことを実践していて、スメドレーとも半同棲生活を送っていたことがあります。

スメドレーの紹介で、朝日新聞記者でのちに近衛文麿内閣のブレーンとなる尾崎秀実と知り合います。

日本におけるゾルゲの活動では、尾崎のもつ広い人脈が大いに役立ちました。

尾崎から日本政府中枢の情報を入手できたゾルゲは、日本においてもスパイ網を構築し、武器弾薬・航空機・輸送船などの工場設備や生産量、鋼鉄の生産量、石油の備蓄量などに関する最新の正確な数字を報告しました。

ゾルゲは、ドイツがソ連に侵攻する正確な日時を探り、日本がソ連と戦争する意志のないことを見抜いてモスクワに報告を送りました。

これによって、ソ連はシベリアにいた部隊をモスクワ防衛に回すことができ、独ソ戦の趨勢に影響を与えました。

さらに、尾崎と協力し、日本軍の矛先がマレーやフィリピン、インドネシアなどの南方に向かうように工作まで行っていました。

1941年、日本は御前会議で南方進出を決定し、「帝国国策遂行要領」を策定しますが、これには内閣嘱託であった尾崎の働きかけがあったといわれます。

ゾルゲ事件

ゾルゲの正体が発覚したのは1941年11月のことで、特高警察が通常任務の一環として行っていた外国の新聞記者に対する尾行によって摘発されました。

ゾルゲは信頼できる人物であるとして、ドイツ大使館は特高に対して身分保証をし、尾行をやめるよう要請までしており、ゾルゲの逮捕は関係者に大きな衝撃を与えました。

投獄されたゾルゲは1944年11月7日のロシア革命記念日に巣鴨拘置所で死刑が執行されました。

戦後、1964年にソルゲは「ソ連邦英雄」の称号を受け、東ドイツでは彼の記念切手も発行されました。

男装の麗人 川島芳子

引用:https://twitter.com

川島芳子は本名を愛新覺羅顯㺭(あいしんかくらけんし)といい、1907年、中国清王朝の皇族・第10代粛親王善耆の第14王女として生まれました。

8歳のとき、粛親王の顧問をしていた大陸浪人の川島浪速の養女となり、来日して日本の女学校に通いました。

17歳のとき、ピストル自殺をはかって失敗した芳子は、女を捨てるという決意文書をしたため、断髪して男装をはじめたところ、世間の注目を浴び、マスコミから「男装の麗人」と呼ばれるようになります。

ファンになった女子が押しかけたり、同じように断髪する女性がでてきたりとちょっとした社会現象になりました。

東洋のマタ・ハリ

成人した芳子は一度は結婚するものの、すぐに離婚して上海に渡り、日本の駐在武官だった田中隆吉と交際し、日本軍の諜報員として活動するようになります。

1931年末、芳子は関東軍の依頼で満州国皇帝・溥儀の皇后・婉容(えんよう)を天津から脱出させる任務に加わります。

さらに、1932年芳子は関東軍参謀の板垣征四郎の依頼による上海の日本人僧侶襲撃を行いました。

1931年に満州事変が勃発し、諸外国の目を満州から逸らしたい関東軍は上海での日本人僧侶襲撃を計画し、これが第一次上海事変へと発展していきます。

このとき、芳子は中国人を雇い、報酬と引き換えに襲撃を実行させました。

1933年には芳子をモデルにした松村梢風の小説『男装の麗人』が発表されると、「日本軍に協力する清朝王女」として芳子はマスコミの注目を浴びる、「東洋のマタ・ハリ」「満州のジャンヌダルク」と呼ばれるようになります。

ところで、同じ頃に日本軍でスパイ活動を行っていた女性で芳子のライバルといわれる中島成子(しげこ)がいましたが、芳子と成子は犬猿の仲として有名で、顔を合わせるとお互い殺しあわんばかりの空気になり、芳子の飼っていた子猿と成子の飼っていた仔犬まで仲が悪かったといいます。

敗戦と処刑

芳子は次第にラジオや講演会で関東軍の行為について批判を行うようになっていったため、軍上層部から疎まれるようになり、やがて表舞台から姿を消します。

1945年、日本の敗戦とともに芳子は北京で中国軍に捕えられ、売国奴の「漢奸(かんかん)」として銃殺刑になりました。

芳子に関しても、本家のマタ・ハリと同じで知名度を利用されてはいたものの、実際にどれほどの諜報活動を行っていたかについては疑問があるとされています。

赤いオーケストラ

引用:https://www.welt.de

「赤いオーケストラ」とは、ナチス・ドイツ占領下の欧州において活動していたソ連によるスパイネットワークのことです。

赤いオーケストラというのはドイツの諜報機関ゲシュタポが名付けたもので、対スパイ部署ではスパイの無線通信を音楽演奏になぞらえスパイ網のことを楽団と呼び、スパイをミュージシャンという隠語を使っていました。

赤いオーケストラの3グループ

赤いオーケストラには3つのグループがありました。

1つ目が、レオポルド・トレッペルによって指揮されベルギー・オランダ・フランスで活動していたグループで、隠れ蓑として設立した商社で資金調達を行いながら、ドイツの公的機関やドイツ兵士の訪れるパリのキャバレーの踊り子などに協力者を作り、情報収集を行いました。

2つ目が、アービド・ハルナックとハッロ・シュルツェ・ボイゼンによって指揮されドイツ国内で活動していたグループで、ドイツ国内の共産主義者によって構成され、空軍省内にスパイ網を構築して武器製造の極秘計画を入手したり、陸軍省・外務省・宣伝相・陸海空軍総司令部など幅広く活動を行いました。

1941年のモスクワ戦ではヒトラーと将軍たちの作戦会議に速記者としてスパイを潜り込ませ、ドイツの作戦計画を細部まで入手することに成功し、ソ連軍の勝利に貢献しました。

3つ目がアレクサンダー・ラドの指揮する中立国スイスで活動していたグループで、ここには「ルーシー」のコードネームをもち、第二次大戦で最も偉大なスパイといわれるルドルフ・レスラーがいました。

レスラーの提供するドイツに関する情報(ルーシー情報)は極めて正確で、レスラーには月給1700ドルという破格の報酬が与えられました。

ゾルゲ・グループ全体の報酬が1000ドルであったことと比べると、ソ連がどれだけレスラーを重要なスパイと見ていたかがわかります。

レスラーのものも含め、ラド・グループは月平均800件もの情報をソ連に送りました。

一方、ソ連側に情報が漏れていることに気づいていたゲシュタポはモスクワに送られている怪しい電波の逆探知を行い、1941年、トレッペルらの居場所を突き止め、ベルギーのグループを壊滅させます。

さらに、1942年にはドイツのハルナック、ボイゼンらも逮捕され、処刑されました。

これによって、ソ連はますますレスラーの情報に頼らざるを得なくなります。

1943年のクルスクの戦いでも、レスラーはドイツの兵力や攻撃時期について正確な情報をソ連に送り、ドイツ軍の乾坤一擲の作戦は失敗に終わり、独ソ戦の主導権はこれ以降ソ連の手に移ります。

レスラーの情報源の謎

このように、たびたびソ連に貴重な情報をもたらしたレスラーですが、彼の情報源がなんなのかについては、ラドもモスクワも知りませんでした。

ラドはレスラー情報源を聞き出そうとしましたが、レスラーは「情報源を聞き出そうとするのなら、情報提供をやめる」と言って拒絶しました。

結局、現在でもレスラーの情報源がなんであったかはっきりとはわかっていません。

しかし、一説によると、レスラーに情報を提供していたのはイギリスだったといわれます。

当時のイギリスはドイツのエニグマ暗号の解読に成功しており、ウルトラ情報といわれる解読されたドイツの暗号情報をレスラーを使ってソ連に流していたというのです。

独ソ戦でソ連が優勢になることで、ドイツが対英戦に割ける戦力が減り、イギリスへの脅威を低下させることができると考えたのです。

これが本当だとすると、ドイツを出し抜いたと思っていたソ連が、実はイギリスの手の内で利用されていたということになり、ここでもまた高度で複雑な諜報戦が繰り広げられていたといえます。

真珠湾のスパイ 吉川猛夫

引用:https://japaneseclass.jp

吉川猛夫少尉は、日本海軍の軍令部第三部に所属していた情報将校で、真珠湾攻撃のための諜報活動を行いました。

1941年から、吉川は外務省職員「森村正」の偽名を使い、ホノルル領事館に勤務します。

吉川の正体を知っていたのは喜多長雄総領事だけでした。

吉川は、日本から連絡にきた軍令部の中島少佐から渡された1本のコヨリにあった97項目の情報要求事項に基づき、「A情報」と呼ばれる報告をまとめました。

吉川は真珠湾を見下ろす高台にある日本料亭に入り浸り、眼下のアメリカ太平洋艦隊の動向を監視したり、釣り人を装って港湾の水深を調べたりしていました。

真珠湾攻撃の数時間前には「真珠湾には空母はいないが主力艦艇はいる」という情報を日本に送りました。

吉川の情報がなければ真珠湾攻撃の成功はなかったといわれています。

吉川は頻繁にハワイ観光をしたり、酒を飲んで派手に女遊びをしたりして、遊び人であると周囲に思わせることによりスパイであることをカモフラージュし、開戦後に一度は収容所に入れられますが、スパイの正体が発覚することはありませんでした。

1942年に日米交換船で日本に帰国し、戦争中は海軍の情報員を務めましたが、日本軍が不利であるという吉川の戦況分析は上層部から疎んじられ、吉川は辞職願を出して海軍を去りました。

東西ドイツ諜報戦 ヴォルフVSゲーレン

1949年、ドイツは西ドイツと東ドイツの2国に分断され、それぞれソ連とアメリカがバックについて、冷戦構造の最前線に立つこととなりました。

東西ドイツが統一されるまでの約40年のあいだ、2国のあいだでは目には見えない熾烈な諜報戦争が繰り広げられていました。

顔のない男 マルクス・ヴォルフ

引用:https://en.wikipedia.org

マルクス・ヴォルフは東ドイツ国家保安省(Mfs:シュタージ)副長官にして、同省の情報収集管理本部(HVA:国家保安省『A』総局)の長官を務めた人物です。

ヴォルフは東ドイツの伝説的スパイマスターで、西側諸国は長い間、HVA長官が誰かわからず、ヴォルフは「顔のない男」と呼ばれ恐れられました。

この時代に作られた多くのスパイ小説で敵役のモデルとなった人物です。

1979年、HVA職員のヴェルナー・シュテラーが亡命し、彼を尋問しているときに顔写真の職歴判定でやっとヴォルフの正体が判明しました。

ロメオ作戦

ヴォルフが西ドイツに仕掛けた諜報戦の代表的なものがロメオ作戦です。

当時のドイツでは比較的女性の社会進出が進んでおり、恋人のいないキャリアウーマンも珍しくありませんでした。

ロメオ作戦とはこうした要人の女性秘書をターゲットにしたもので、有能ではあるが独身で孤独な生活を送っている女性を選び出し、イケメン男子によって篭絡して情報源にしてしまうというものです。

1949年から西ドイツの捜査当局が摘発した秘書スパイの数は58人にのぼり、大統領府や西ドイツの連邦情報庁高官の女性たちもスパイに情報を流していました。

ギュンター・ギョーム事件

ヴォルフにとって最大の勝利といえるのがギュンター・ギョーム事件です。

グラント西ドイツ首相の秘書であるギュンター・ギョームがHVAのスパイであることが発覚した事件で、ブラント首相はこれによって引責辞任しました。

ギョームは難民として西ドイツに亡命した後、実に20年を費やし、真面目な働きぶりを評価されて首相の個人秘書になり、首相の意思決定に大きな影響を与えるとともに、NATO関係など多くの機密を盗み出しました。

西ドイツのスパイマスター ラインハルト・ゲーレン

引用:https://ja.wikipedia.org

一方、西ドイツにおける諜報活動を取り仕切ったのが、連邦情報庁長官(BND)であったラインハルト・ゲーレンです。

BNDは通称「ゲーレン機関」と呼ばれました。

ゲーレンは元ドイツ軍人で、第二大戦中は陸軍の情報担当部門である「東方外国軍課」を率いてソ連との諜報戦を展開し、たびたびソ連軍の行動を正確に的中させ、ドイツの敗北も早くから予測していたといわれます。

戦後は、ソ連に築いた独自情報網や高い諜報能力を買われて西ドイツで独自の諜報活動を行うことをアメリカに認めさせ、これがBNDへと発展していきます。

ゲーレンはたいてい野暮ったい茶色の上着にソフト帽という目立たない服装をしており、その格好と同様に目立たないものの、東ドイツとのあいだで諜報戦の死闘を繰り広げ、ヴォルフとも渡り合っていたといわれてきました。

スパイマスターの虚実

しかし、近年、当時の外務省などの文書が公開されることによって、ゲーレンに対する評価も少し変化してきました。

もともと、ゲーレンは東方外国軍課の時代から常に正確な情報をもたらしてきたというわけではなく、ゲーレンは自分の価値をアメリカに認めさせるため、自分が行ってきた活動を誇張して伝えており、ソ連に対する有能な諜報員という評価は自分を西側諸国に高く売りつけるためのブラフだったというのです。

BND時代の活動についても、これまでいわれてきたほど成功していたわけではなく、ハンガリー事件やプラハの春などソ連時代の重大事件に対する予測にも失敗しており、さらにはBND内部に入り込んでいた二重スパイのハインツ・ヘルフェの正体にも長いあいだ気づきませんでした。

ヘルフェが逮捕されるまでに彼の通報で逮捕され、死に至った西ドイツの諜報員は数百名にのぼるとされます。

冷戦の最前線における東西ドイツ諜報戦は、どちらかといえば東側が優勢だったようです。

ローゼンバーグ事件

引用:http://teemakes.com

ローゼンバーグ事件は冷戦下のアメリカで発覚したソ連によるスパイ事件で、マンハッタン計画に貢献した科学者の1人がソ連に原爆開発に関する情報を流していたとして逮捕されたことがきっかけとなって発覚しました。

科学者の尋問により浮かび上がったのがローゼンバーグ夫妻によるスパイグループでした。

夫のジュリアス・ローゼンバーグはニューヨーク市立大学出身の電気技師で、共産党員でした。

ジュリアスは、1944年末から1947年にかけて妻のエセル、エセルの弟デイビットとその妻ルース、親友のソベルからなるスパイグループを結成してスパイとして利用可能な科学者のリストや近接信管の実物を盗み出したり、原爆製造などの機密情報をソ連に渡していたとされます。

スパイ容疑が発覚し、ジュリアスたちは国外逃亡を図りますが、失敗して全員が逮捕されました。

ローゼンバーグ夫妻は死刑を言い渡されましたが、夫妻は刑務所から自分たちの無実を訴え続けました。

物的証拠はなにもなく、デイビットの供述のみを状況証拠としていたため、冤罪事件としてマスコミに大きく取り上げられ、世界中の著名人から死刑を中止するよう嘆願が行われました。

しかし、世間の願いは裏切られ、1953年ニューヨークの刑務所で夫妻に対する死刑が執行されました。

当時のアメリカでは赤狩りが大々的に行われており、夫妻は行き過ぎた反共産主義による人権蹂躙の犠牲者だといわれました。

しかし、1995年に機密文書が公表され、夫のジュリアスは本当にソ連のスパイであったことがわかっています。

しかし、妻のエセルがそのことを知っていたのか、彼女自身もスパイ活動に関わっていたのかはわかっていません。

エセルの弟デイビットは妻のルースを守るため、尋問ではわざと姉の罪が重くなるようにしたと認めており、エセルが本当に死刑にならなければならないようなことをしていたのかどうかは今も謎のままです。

ポートランド事件とクローガー夫妻

夫婦というのは独身者よりも社会的な信用が高く、地域社会にも溶け込みやすく、スパイにとっては好都合と言えます。

1961年、イギリスの海軍文書が盗まれた「ポートランドスパイ事件」でも、クローガー夫妻という夫婦がスパイとして逮捕されています。

クローガー夫妻はローゼンバーグ夫妻と同じく、ソ連KGBのアベル大佐の指揮するスパイグループに所属しており、過去にクローガー夫妻がニューヨークにいたときのアパートの家賃はローゼンバーグが支払っていました。

冷戦期には、このようにアメリカとイギリスを股にかけた大規模なスパイネットワークが構築されていたのです。

モサドの伝説的スパイ ヴォルフガング・ロッツ

引用:http://www.spiegel.de

ユダヤ人の母とドイツ人の父のあいだに生まれたロッツは、イスラエル国防軍の前身となるハガナーに入隊し、第二次大戦中はイギリス軍で勤務し、ドイツ人捕虜の尋問にあたっていました。

1948年のイスラエル独立戦争に軍人として参加し、国防軍で少佐に昇進します。

ロッツは父親譲りの金髪碧眼というドイツ人的風貌をもち、社交的な性格で流暢なドイツ語を話せることからアマン(国防軍情報課)からスカウトを受け、スパイとなります。

当時、イスラエルはエジプトと対立関係にあり、エジプトではドイツ人科学者たちがミサイルなどの兵器開発を行っていました。

カイロへと派遣されたロッツは、「ドイツ国防軍出身の馬の調教師」という肩書で潜入し、乗馬クラブに入会します。

そこで、ロッツは親独感情の厚いエジプト政府高官や軍の将校、ナチス時代への郷愁を抱くドイツ人科学者など乗馬愛好者の多い上流階級に食い込むことに成功します。

ロッツは元ドイツ軍将校としてエジプト軍将校から軍事関係の相談に乗ったり、ドイツ人科学者からミサイルや国産戦闘機の開発状況の話を聞いたり、上流階級の知り合いに頼んでミサイル基地や空軍基地の見学を行ったりして、詳細な軍事情報を収集して自宅から無線でイスラエルに報告し、第三次中東戦争でのイスラエルの勝利に大きく貢献しました。

のちにロッツはエジプト国家保安局によって逮捕されますが、モサドとの関係は認めたものの、自分がユダヤ人であることは隠し通して死刑を免れ、後に釈放されてイスラエルに帰りました。

ロッツが死去した際には高い功績をあげたイスラエル軍人として埋葬されています。

北朝鮮最高位の女性スパイ 李善実

引用:http://news.chosun.com

李善実(リソンシル)は本名を李花仙(リファソン)といい、北朝鮮最高位の女性スパイとされ、北朝鮮の人気テレビドラマ『名なしの英雄』のモデルにもなった人物です。

済州島南部の村に生まれた彼女は北朝鮮に渡り、最高人民会議の議員に当選、やがて北朝鮮工作員として活動するようになります。

日本に渡って在日韓国人に偽装し、韓国に合法的に潜入するという手法を確立したのは彼女だとされています。

1950年、朝鮮戦争の勃発直前、李善実は一緒にいた北朝鮮スパイが韓国治安当局に逮捕されたことで指名手配され、「この恨みはきっと晴らす」と言い残して、北朝鮮に脱出しました。

その後、李善実は日本で申順女(シンスンニョ)という在日朝鮮人になりすまします。

韓国にいた申の家族とも「涙の再会」を果たし、時間をかけて自分が生き別れになった本物の申順女だと信じ込ませました。

1981年から李善実は韓国において本格的なスパイ活動を開始します。

韓国国内では不動産の購入や転売、高利貸しを行って資金を調達し、頻繁に日本に渡って韓国内では危険の大きい北朝鮮スパイ同士の接触を行っていました。

李善実は韓国を混乱させる破壊活動を行うために、韓国人でサボク炭坑騒擾事件の主導者だった黄仁五(ファンインオ)にスパイ教育と活動資金を与え、スパイ網を形成させました。

このスパイ網は1992年10月に韓国国家安全企画部によって摘発され、容疑者72人検挙、300人を全国指名手配という韓国史上最大のスパイ事件となりました。

李善実は事件発覚前に潜水艇で北朝鮮へと脱出しており、1992年には北朝鮮の政治局候補委員として序列22位にまで登りつめますが、1996年から北朝鮮で起こった粛清である深化組事件により、拷問死したとされます。

李善実は1980年から約10年間、在日韓国人として韓国に潜入して一般市民になりすましていましたが、周囲からは「李ハルモニ(李おばあちゃん)」と呼ばれて親しまれており、誰も彼女がスパイだとは思ってもいませんでした。

完璧な偽装で周りには決して正体を悟らせず、数々のスパイ工作を成功させた李善実はまさに北朝鮮最高の女性スパイだったといえるでしょう。

まとめ

以上、世界のスパイについてご紹介してきました。

現代においてもインテリジェンスの重要性は変わっておらず、これからも世界中で人知れず国家同士の情報戦が繰り広げられていくのでしょう。

現在でも、スパイ達は少しでも自国を有利に導こうと、常にしのぎを削り、危険も顧みずに行動しています。

ここでは有名なスパイ達を紹介しましたが、偉大な功績を残したスパイは名を残さないといわれるように、本当に有能なスパイは最後まで自分がスパイであることを周囲に隠し通したまま任務をやり遂げるものです。

ここで紹介したのは有名なスパイばかりですが、過去には誰にも知られず大仕事を成し遂げ、歴史の闇の中に消えていったスパイもいたことでしょう。

世界には、我々に名前も知られていない凄腕のスパイ達がまだまだ存在しているのかもしれません。



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