世界には多くの格闘技が存在しています。
そして、それぞれに歴史があり、何人もの伝説的な選手が存在しています。
今回は、無数の伝説的な格闘技選手たちの中から、最強の評価に相応しい選手たちを紹介していきます。
色々な競技や年代によって別れていますが、時代を越える強者たちの伝説に色褪せることはありません。
アレクサンドル・カレリン レスリング130キログラム級
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寒さと闘争が蔓延する荒れ果てた地、ロシアが生んだ大英雄、「The Experiment」、「霊長類最強の男」の異名を持つグレコローマンスタイルのレスリング選手です。
どうして彼が「霊長類最強の男」と呼ばれるのか?
それは最重量級の格闘技である、130キログラム級のグレコローマンスタイルで数々の記録を樹立しているからです。
国際大会で13年間無敗を誇り、大会76連勝。
世界選手権9連覇や欧州選手権10連覇。
公式試合での連勝記録は300。
オリンピック3連覇。
これを最重量級で行いました。
小さな階級の選手は、大きな階級の選手にまず勝てません。それゆえ、最重量級での強者は、そのまま世界最強の選手と評価される価値があるのです。
アレクサンドル・カレリンの身長は191センチ、体重は130キログラムです……。
格闘家は大きければ強いものですから、このサイズで動ける時点で、もはや驚異と言えます。
アレクサンドル・カレリンの特筆すべき点は、肉体の比率の完璧さかもしれません。
130キログラムにも体重が行けば、大なり小なり太すぎたり、偏って筋肉や脂肪がついている部分が出てくるものなのですが。
アレクサンドル・カレリンのボディーラインそのものは、とても一般的な形状をしています。
彼は極めてバランスよく大きな体をしているという、稀有な骨格と体型を持った選手でもあるのです。
そして、そのバランス良い巨体という武器に搭載されているのは、たぐいまれな筋力です。
一説にはアレクサンドル・カレリンの背筋力は、400キログラムを超えているとされます。
実際、ベンチプレスでも320キログラムをマークしていますから、常軌を逸したレベルのパワーです。
そのバランスの良い巨体と、強靭な筋力から繰り出される大技が、「カレリンズリフト」と呼ばれています。
……実は、テクニックそのものはレスリングではありふれたものなのです。
俵投げ、サイドスープレックスと呼ばれているテクニックです。
四つん這いというレスリングのルール上で防御に適した姿勢にある相手に対して、体を横から両腕で挟み込むように固定し、背筋力任せに180度ひっくり返す投げです。
しかし、そんな豪快な投げ方を使用できるのは、相手がせいぜい軽量級か中量級の選手の時と相場が決まっています。
そうだというのに、アレクサンドル・カレリンは、その投げを130キログラムの世界トップクラスのレスリング選手にかけてしまうことが可能でした。
そんな有り得ないほどの筋力を持っているのが、「霊長類最強の男」なのです。
彼の練習方法は、積雪30センチのなかを走り回り、ボートを3時間続けてぶっ通しで漕ぎ続けるなどの、とんでもないハードワークでした。
恵まれた身体サイズと、驚異的な筋力だけでなく、とてつもない練習量もアレクサンドル・カレリンの強さを支えています。
さらに言えば、彼はメンタル面でも、アスリートには絶対に避けて通ることの出来ない故障にたいしてさえも完璧です。
脳しんとうを起こしていたにも関わらず優勝。
肋骨が折れていたにも関わらず優勝。
胸の筋肉が切れて片腕が使えなくても優勝。
どんな窮地にも対応する能力があることも、彼の強さを裏打ちしてくれているのです。
神がかった力とサイズ、そしてハードワークを行う勤勉さが、彼を最強の座に導いています。
ヒクソン・グレイシー グレイシー柔術
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「400戦無敗の男」。
ブラジリアン柔術界の生きる伝説ですね。
グレイシー柔術の創始者エリオ・グレイシーの三男であり、総合格闘技のキャリアを完全無敗のまま引退した数少ない人物の一人です。
20才のときに、ブラジルのルールが少ない総合格闘技的な試合形式であるバーリトゥードで、150連勝中だったレイ・ズールを倒して有名になります。
レイ・ズールは193センチの100キログラム、当時34才。ヒクソン・グレイシーは178センチの84キログラムと一回り以上は小柄な体格をしていました。
バーリトゥードは素手、急所攻撃ありに、肘打ちあり、頭の踏みつけ、噛みつきまでありの、まさに何でもありという野蛮なルールです。
両者が血まみれになる激しい戦いの果てに、ヒクソン・グレイシーが絞め技で勝利したようです……。
バーリトゥードは、今で言うMMA……総合格闘技の原形とも呼べるものですが。
今のそれはまったく異なるものであり、伝統は失われたと言われてもいます。
金的もあり、目潰しも噛みつきもあり……何ならリングから投げ落としたりもありと、格闘技というにはあまりに激しいもののようです。
血まみれになることも問題のない、ただの興行化した暴力といったところで、スポーツと呼ぶべきものからは、確かに逸脱してはいるようです。
そんな激しいバーリトゥードで、自分よりかなり体格の大きな強敵を破り、ヒクソン・グレイシーは有名になりました。
総合格闘技の黎明期における伝説的な存在ですが。
そもそも、基本的には道場主として生計を立てている人物であり、プロの格闘家が本職というわけではありません。
プロの選手としては、全盛期を過ぎた三十代後半に、日本へと招かれて試合を行っています。
ルールが毎試合変わるような手探りの時期であり、体格的な不利や年齢的な衰えがあるはずでしたが、ヒクソン・グレイシーはそれらの試合に全て勝利しました。
道場破りやストリートファイトが当たり前、血まみれのバーリトゥードが興行として行われているという、荒くれたブラジルの格闘界シーンで、最強と呼ばれた人物です。
どれぐらいの強さなのかを現在のルールに保護されたプロスボーツ的な価値観で示すのは難しい気がする人物ですが、最強の格闘家と呼ばれる伝説と実力の持ち主には違いありません。
体格や年齢差や、アウェーという不利をものともせずに、全ての試合に勝って不敗を貫きました。
そんなことを出来た選手は、まずヒクソン・グレイシーしかいないのです。
全盛期からは弱りに弱り、研究しつくされている三十路のベテランが試合に勝つのは稀有なことですが、ヒクソン・グレイシーは全てに勝利しました。
そんなことを行えるほどの余裕があるぐらいには、ヒクソン・グレイシーは強かったわけです。
ヒクソンやその弟ホイス・グレイシーなどの活躍により、グレイシー柔術はトレンドとなりました。
打撃中心の格闘技から、関節技や柔道のような投げやレスリングのような組み技が「安全に」行えるようなルール作りが完成していきます。
総合格闘技というスポーツが生まれるために、パーリトゥードの存在や、グレイシー柔術が果たした貢献は大きなものなのです。
プロとしてヒクソンよりもキャリアのある弟ホイス・グレイシーは、柔術をアメリカ軍の基礎格闘技の一つにするほどの影響力を発揮しています。
グレイシー柔術は、世界の格闘技の価値観を、大きく変貌させているのです。
エメリヤーエンコ・ヒョードル 総合格闘技ヘビー級
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「氷の皇帝」と呼ばれた、00年代で最強の総合格闘技選手です。
エメリヤーエンコ・ヒョードルは183センチと、ヘビー級格闘技選手としては大柄ではなく、むしろ小柄な選手と呼べるサイズです。
しかし、2000年の総合格闘技デビューから10年間無敗を誇りました。
さらに柔道の国際大会での好成績、世界サンボ選手権優勝3回、世界コンバットサンボ選手権も一度の優勝を成し遂げています。
総合格闘技選手としてのキャリアを過ごすと同時に、それらの記録も達成しているのです。
エメリヤーエンコ・ヒョードルの、格闘技選手としての技量・能力の高さを示す成績と言えますね。
そのスタイルは攻撃的なものです。
フックに似た軌道から放つ強打のパンチと、瞬発力に冴える踏み込みを使います。
ゆっくりと間合いを詰めてきて、一瞬で加速し、襲いかかってくるわけです。
エメリヤーエンコ・ヒョードルは剛腕で敵を沈めることが多い選手でしたが、前述の通り柔道の国際大会レベルの実力者でもあります。
パンチだけでなく、接近してからも強いのです。
国際大会レベルの柔道選手に組み勝つことは、かなり難しいことでしょう。
さらに、関節技の豊富なサンボの世界大会王者でもあります。
殴り合っても強く、組み合っても強く、密着しての関節技の戦いでも強い……それが、エメリヤーエンコ・ヒョードルの強さの根拠です。
性格も冷静沈着で、ほとんど無表情のままフルスイングで殴りかかって来ます。
どの状況になっても強いという能力を持っていることが、急激に進化して完成していく総合格闘技の00年代を無敗で過ごせた理由でした。
多くのチャレンジャーがその10年のあいだヒョードルを倒そうとして、選手だけでなく各国の有名な格闘技ジムが打倒に燃えます。
ボクシング界のカリスマ・トレーナー、フレディ・ローチまで呼び込みヒョードルを倒そうとしましたが、三十路を迎えて盛りを過ぎるまで、ヒョードルに敵はいませんでした。
ブロック・レスナー プロレス
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191センチ130キログラムの巨体を誇る圧倒的な体格を持つ人物、それがブロック・レスナーです。
本職はプロレスラーですが、その厳つい風貌と巨体だけでなく、アマチュア・レスリングで2度のオールアメリカンに選出されたトップクラスのアスリートでもあります。
そして、アメリカの総合格闘技大手のUFCにおいてもチャンピオンになったこともあり、格闘技選手としても、その体格と技術は有効に機能していました。
ただし、彼の体はナチュラルなトレーニングで作られたものとは言いにくいものもあります。
当然ながら、プロレスラーには筋力増強効果のあるドーピングを禁止するルールはありません。
スポーツでありスタントショーではありますが、プロレスは他の種目と異なり、あくまでもブック(台本)のあるショーです。
圧倒的な体格も、薬物と共に鍛えられた体であり、キャリアを通じて高度なドーピングの監視にさらされる一般的な格闘技選手と同じ立場とは言いがたいものがあります。
しかし、UFCで長期政権や本物の強豪との試合に勝ったというわけではなく、業界のビジネス的な思惑が大いに働いた結果ではありますが、UFCのヘビー級王者になった事実は大きいでしょう。
まともな王座獲得の手法でもなく、薬物の成果であったにせよ、強さは無類のものがあります。
……元も子もない事実として、薬物に頼った巨漢は格闘技選手として圧倒的な強さを出してくれます。
アメリカのドーピング検査はかなり精密に行われるため、ヘビー級で派手な動きの面白い試合が行われた場合は、かなりの確率で後々、その使用が判明したりするものです。
薬物もまた格闘技選手を強くする材料であり、その疑惑のある選手たちは、たしかに強さがありました。
薬物に頼った肉体作りの結果という、格闘技としては反則的な選手ではありますが、たとえそれがナチュラルなものでなくとも強さは証明したわけです。
薬物による筋力は、鍛練による技術を凌駕することもある、その現実を証明する最強さを、ブロック・レスナーは教えてくれてもいます。
薬物で作られた体は、やはり強かったのです。
そして、プロレスという格闘技の魅力もヒール(悪役)として教えてくれてもいますね。
面白くて派手なら、何だっていいのです。
ディーゼルノイ・チョー・タナスカ ムエタイ
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「天を突く膝蹴り」の異名を持つ、近代ムエタイ最強の評価をされる人物が、ディーゼルノイ・チョー・タナスカです。
185cmの長身で、ライト級61.23キログラム級を制覇しました。
あまりにも強くなり、賭けが成り立たなくなったために試合が組めず、24才の若さで強制的に引退させられた天才です。
13才の頃にはムエタイの試合をしていました、体重は30キロ台だっということです。
ところ変われば何もかも変わるものですね。
そんな年でムエタイの選手として稼ぐなんて……世界観が日本とは違いすぎます。
とにかく、ディーゼルノイ・チョー・タナスカはムエタイ選手としてのキャリアを積んでいきました。
キャリアを積むにつれて、彼の戦法は確立していきます。
キャリアの前半はパンチ主体の選手であり、細身が災いしてか、それなりに負けていたようですが、その185センチという長身を活かしたスタイルを見つけます。
腕で防御を固めながら、首相撲に持ち込んで、長い脚から繰り出される膝蹴りを対戦選手の顔面やボディーに叩き込むのです。
「天を突く膝蹴り」の完成でした。
ディーゼルノイ・チョー・タナスカは、対戦相手にガードを固めて接近していき、長身から長い腕を伸ばして対戦相手の首に両手を構えます。
そして、体重を浴びせるようにして押し下げなが、長い脚をおりたたんでの膝蹴りを無数に打ち込んでいきます。
顔面に当たれば一撃で前歯が折られ、顔面の骨に亀裂が入ります。
それも酷いダメージですが、内臓が詰まっているボディーに膝蹴りが何十回と入って行くのも、ダメージの加算が深刻です。
ボクサーのパンチよりもはるかに重量のある強打が腹筋を壊し、内臓を揺さぶります。
それに抗おうと体を起こそうとすれば、首にかけられた腕を使われ、リングに向けて投げ倒されるわけです。
内臓にダメージが入った状態で、リングに倒され起き上がる。
その動作で血圧は変動して疲労も増しますが、立ち上がると休んでもいられません。
ディーゼルノイ・チョー・タナスカの長いリーチによるローキックが待っているからです。
守っていれば一方的に脚を蹴られるだけなので、前に出て自分の間合いで攻撃をしなければなりません。
ですが、ディーゼルノイ・チョー・タナスカは防御を固めて、相手が近寄るのを待っています。
近寄ればカマキリの腕に捕らえられるかのごとく、首に腕が絡んできて、再び首相撲に縛られたあげく、「天を突く膝蹴り」の乱打を浴びることになるわけです。
どうにもこうにも、手の打ちようがないスタイルですね。
遠くでも近くでも、常に有効打に攻撃され続けることになります。
ディーゼルノイ・チョー・タナスカの対戦相手は、敗北するだけでなく、無数の膝蹴りを受けて、重傷を負わされることになりました。
この無敵のスタイルに、挑戦する者など現れるはずもなく、賭けで成り立つムエタイの興行も破綻します。
皆がディーゼルノイ・チョー・タナスカに賭けるので、ギャンブルにならないわけですね……。
興行にならなければ、試合が組めず、引退するしかないわけです。
最強だからこそ、仕事がなくなる。何だか強いことにもリスクがあるようです。
アーネスト・ホースト キックボクシング
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「ミスター・パーフェクト」と呼ばれた技巧派のキックボクサーです。
190センチ115キログラム、平均身長が世界最大の国、オランダ出身のキックボクサーです。
日本で行われたK-1のヘビー級王者に4度も輝き、K-1主催の大会では最多の優勝回数を誇ります。
90年代後半から始まったK-1は、賞金の少ないキックボクシングのなかでは、優勝賞金が1000万円(当時)と破格だったことで名選手を引き寄せました。
軽い階級のキックボクサーなどは、週に1回かそれ以上のペースで試合に出なければならないほどの薄給である国も多いため、高額なファイトマネーがあるK-1は魅力的なのです。
試合が組まれにくい100キログラムをはるかに超えたスーバーヘビーの選手が参加出来たことも大きいですね。
格闘技としては厳格な階級制限をして、技能を競い合うことが王道ですが、K-1はその辺りの厳格さはありませんでした。
スーパーヘビーとも呼ぶべき選手らが、短いラウンドでトーナメントを行うという過酷で派手なルールをK-1は実行します。
そんな条件での、最多優勝回数の実績を持つアーネスト・ホーストは最強のキックボクサーとしての評価に値すべき選手です。
堅固なディフェンスと巧みなコンビネーションを使い、37才という格闘技選手としての盛りをはるかに過ぎた高齢でK-1を優勝することが出来た実績は驚異的なことと言えます。
苦手とした相手は体重の過大な相手です。
K-1最盛期は体力も落ちていたためか、フットワークを使う回避ではなく、その場に居座りディフェンシブで待ち構えるタイプでした。
ボブ・サップやセミー・シュルトなどの、自分よりも20~30キログラムほど重たい相手と戦うには、不向きなスタイルではあります。
しかし、スーパーヘビー級の猛者と、一日のあいだに三試合も連続して行う過酷なルールの大会において、最多の優勝回数を誇るホーストは最強のキックボクサーと呼ばれるに相応しいものです。
ブランコ・シカティック キックボクシング
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「伝説の拳」、「クロアチアの英雄」と呼ばれる異色のヘビー級キックボクサーです。
189センチの体重98キログラムの鍛え上げられた肉体の持ち主で、169戦150勝(138KO)15敗3引き分けという輝かしい成績を誇っています。
K-1初代王者であり、当時38才でありながら、27才だったアーネスト・ホーストを倒して優勝しています……。
40才で引退しますが、シカティックは軍人であるためクロアチア独立戦争に特殊部隊を率いて参戦することが理由でした。
97年、42才で現役復帰、24才だった著名な日本人K-1選手である武蔵に延長の末に、右ストレートでKO勝ちします。
同じ年に人生初のKO負けをサム・グレコにもらうことになります。
……しかし、42才になるまで、KO負けしたことはありませんでしたが、人生唯一のKO負けは、まさかの立ったままの失神でした……。
169戦もヘビー級の打撃格闘技をしていて、唯一のKO負けというのも、むちゃくちゃな事実です。
シカティックは、色々ととんでもない経歴の持ち主ですが、ヘビー級の格闘技で138のKO勝利は伝説的な強さですね。
隙あらば獣のように襲いかかる攻撃性の荒さと圧力は、無類の強さがあります。
軽い階級では見たことがありますが、ヘビー級でいきなり動物みたいな勢いで仕留めにかかる映像は、シカティックだけしか見たことはありません。
反則をされることもありましたが、反則をすることも選手としてのキャリア終盤は多く、血の気の荒さを観客に見せつけてくれました。
終盤は本職のキックボクシングではなく、畑違いの総合格闘技の試合に出ていましたが、ルールを把握していないのか故意なのか……劣勢になればルール無用の荒くれた反則をしていました。
毎試合ルールの変わる総合格闘技の黎明期であったことを踏まえても、それらは許容されることはありません。
しかし、容赦ない反則の数々に宿る鋭さは、本来のバーリトゥードらしかったかもしれません……。
選手引退後は警備会社……露骨に言えば傭兵会社を設立し、クロアチア大統領の警護などを行っています。
初代K-1王者ブランコ・シカティックもまた、最強の格闘家と呼ぶに相応しい強さを有した選手なのです。
フロイド・メイウェザーJr. ボクシング・ウェルター級
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「Money(金の亡者)」とも呼ばれ、「TBE(史上最高、The Best Everの略)」と自称する人物です。
自分を演出するコンセプトに「悪役」をあえて取り入れているような人物ですね。
50戦50勝(27KO)無敗のまま現役を引退した、ボクシング史上、最高の成績の持ち主です。
その類いまれなディフェンス能力で、世界トップクラスのボクサーのパンチを避けつづけ、鋭いカウンターを叩き込みポイントを奪っていきます。
極端に防御や回避に特化したスタイルから、試合内容に対しては否定的なコメントも多く寄せられる種類の選手です。
本人は叔父などがパンチドランカーで苦しむ姿を間近で見ていたためか、健康的にキャリアを過ごすことをテーマにもしていたようです。
瞬間移動とも謳われた俊敏なステップワークを用いて、コーナーに追い込まれそうな時でもすり抜けて逃げることが出来ました。
L字ガードと呼ばれたディフェンスのテクニックも、フロイド・メイウェザーJr.の代名詞的なものです。
防御に優れた構えであり、フロイド・メイウェザーJr.のスタイルにはマッチしていました。
フットワークと巧みなガードで逃げ回り、カウンターや少ない手数を当てて、相手を削るようにしてKOを狙いに行きません。
それが12ラウンドのあいだ、延々と繰り返されます……。
悪く言えば地味ですが、良く言えば堅実なスタイルと言えますね。
激しいファイトを見ることはフロイド・メイウェザーJr.の試合では難しいのですが、防御を極めて無敗のままキャリアを終えました。
マイク・タイソン ボクシング・ヘビー級
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少年院でボクシングを学び、そのまま世界チャンピオンになる……漫画のような人生を地で行ったのがマイク・タイソンです。
マイク・タイソンは貧しい家庭で育ち、非行に走ります。12才になるまで51回も逮捕されて、少年院に収容されました。
そこでボクシングと出会います。
少年院でのボクシング指導教官がマイク・タイソンのことを、プロのトレーナーであるカス・ダマトに伝えます。
カス・ダマトはマイク・タイソンを公私共に支える人物として、最強のボクサーを育てることになります。マイク・タイソンの母が死去してからは、法的な保護者にもなりました。
タイソンは180センチとボクシングのヘビー級では小柄な選手でしたが、攻撃的なスタイルに堅固な防御の構え、そして天性の反射神経を有した完璧なボクサーでした。
パワフルさも目立ちますが、全盛期は的確に急所へと刺さるような、精密なパンチのコンビネーションを持っています。
ガードを固めながら素早く相手の懐に入り込み、精確な強打を放ち、相手の攻撃を回避した直後に強打のコンビネーションを打ち込みました。
ヘビー級とは思えないほどのスピードと、攻守が連携した無欠のコンビネーションで、対戦相手を仕留めます。
デビューしてからのタイソンは、その圧倒的な実力をもってKOの山を築き上げていきました。
そして、史上最年少の20才5ヶ月でヘビー級チャンピオンになります。
これは同じくカス・ダマトの門下であった、フロイド・パターソンの持っていた記録21才11ヶ月を大きく更新するものでした。
攻守共に完璧なハードパンチャーであるマイク・タイソンでしたが、その人生には不幸が相次ぎます。
2才のときに父親が蒸発、16才のときに母親が死亡、18才のときには最も信頼していたカス・ダマトが亡くなり、20才のときは兄が亡くなっています……。
さらに22才の時には、マネージャーで後援者であった人物が白血病で急死するなど、悲劇の連続がマイク・タイソンに襲いかかります。
そんな別離の連続がたたったのか、マイク・タイソンの人生は暗転していき、公私ともにトラブルが続くようになりました。
カス・ダマトの遺したチームも解体され、タイソンは孤立し、離婚、犯罪、練習不足、放蕩などの様々な問題を起こし、ボクシングにおける精細を欠いていくことになります。
……カス・ダマトがもう十年でも長く生きていれば、あるいはタイソンが十年早く生まれていれば、数々の公私で起こしたトラブルも減っていたかもしれません。
ロッキー・マルシアノ ボクシング・ヘビー級
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「ブロックトンの高性能爆弾/The Brockton Blockbuster」の異名を持つ、ボクシング界最大の伝説を持つ男……。
ボクシングのヘビーにおいて、級49戦49勝(43KO)という完全無欠な記録を残し、無敗のまま引退した伝説のボクサー……。
それが、ロッキー・マルシアノです。
フロイド・メイウェザーJr.に50戦50勝で抜かれてしまったものの、ロッキー・マルシアノのKO率の高さから分かる通りに、メイウェザーの防御特化のスタイルとは真逆のボクサーです。
ロッキー・マルシアノは前に出て、強敵と打ち合い勝利するという攻撃的かつ、尋常ならざる打たれ強さを持つボクサーでした。
その身長は180.3センチ、そして体重はなんと83キログラムしかありません。
ロッキー・マルシアノは、常に自分よりも十数キロは重たい選手に挑みかかり、49人のヘビー級ボクサーたちを倒してみせたのです。
本来は圧倒的に不利である体格差をものともしない強さがあることも、ロッキー・マルシアノの驚愕すべき事実と言えます。
ロッキー・マルシアノの王者戴冠となった試合も、伝説と呼ぶに相応しい試合です。
相手は世界王者のジャーシー・ジョー・ウォルコット、ロッキー・マルシアノは第1ラウンドでいきなりダウンをもらいます。
それからもジョー・ウォルコットから一方的に殴られる試合展開が続き、12ラウンド(当時は15ラウンド制)まではその展開が続きました。
ほとんどの展開で殴られ続け、あきらかに負け試合の様相を呈しており、判定に持ち込まれるとロッキー・マルシアノは確実に敗北していたでしょう。
しかし、ロッキー・マルシアノはあきらめていませんでした。
13ラウンド目に、下がるジョー・ウォルコットに対してロッキー・マルシアノは前に出つづけます。
ロープ際に追い詰めつつ、ロッキー・マルシアノは前に出ている左足を連続で踏むようなステップを刻み、ジョー・ウォルコットに接近。
右のフックを叩き込みます。
ジョー・ウォルコットはそのまま前のめりに倒れてカウントアウト、ロッキー・マルシアノはヘビー級チャンピオンの座を獲得しました。
この時のパンチは「スージーQ」と名付けられています。
元々は、ダンスのステップにつけられていた名前であり、ロッキー・マルシアノが、ジョー・ウォルコットとの間合いを詰めるために使われた足運びだと本人は語っていましたが……。
この試合を決めた破壊的なKOパンチのことを「スージーQ」と呼ぶようになりました。
ロッキー・マルシアノはその後も連勝をつづけ、1955年9月アーチー・ムーアと6度目の防衛戦に9回KO勝ちした試合が最終戦となります。
「もう戦う相手はいない」という名台詞を残して、ロッキー・マルシアノは49戦49勝の記録を残し、リングを去ったのです。
まとめ
最強の格闘家というテーマには、誰しも一度は興味を抱くものです。
しかし、最強と呼ばれた彼らも、生きた時代が異なっており、競技が持つルールも年齢も大きく異なっています。
彼らが、もしも全盛期の力で戦えば?
真なるバーリトゥード、総合格闘技、レスリング、ルール無しの戦場、キックボクシングやボクシング……。
おそらくはルールや体重などのレギュレーションを守れば、今回ご紹介した選手たちが、それぞれの分野において勝利することになるのではないかと思います。
……実現するのは不可能なこととは言え、格闘技ファンならばそういう妄想をしてしまうものです。
今回の記事が、そんな妄想の手助けになれば幸いでございます。