アトランティス文明やムー大陸など、海底に沈んだ都市と言うと幻の古代文明と言うと、フィクションなのかノンフィクションなのか定かではない存在の印象があります。
しかし、実在が確認されている古代文明であっても海面変動で海底に沈んでいることが多く、海底都市は決して空想上の存在ではないのです。
太古のロマンと驚きにあふれた8つの海底都市を紹介していきます。
ジャマイカ ポート・ロイヤル
引用元:https://www.gounesco.com/
ジャマイカに眠る海底都市ポート・ロイヤルは、17世紀にカリブ海の海賊達が拠点としていた港町です。
売春、密輸、賭博、ありとあらゆる違法行為が行われたポート・ロイヤルは““世界で最も豊かで、最もひどい町”とも呼ばれていました。
17世紀の半ばにスペインの領土であったジャマイカをイングランドが買収、イングランドは自国の領土に海賊が停泊することを拒まなかったため、たちまちポート・ロイヤルには500隻を超える海賊船が停泊するようになりました。当時、まだ世界的に地位が低かったイングランドは、海賊を利用して自国の財政を潤わせようと思っていたのです。
そのため、ポート・ロイヤルでは海賊の違法行為が公然と行われるようになり、大量のブラックマネーが流入するようになりました。
そして、大金を持つ海賊たちをターゲットにした売春宿や酒場、カジノも乱立するようになり、あっという間に堕落した巨大な港町となっていきました。
しかし、1962年にカリブ海で大規模地震が起こり、津波がポート・ロイヤルを襲います。そして、繁栄を極めた町の2/3はあっけなく海に沈んでいったのです。
ポート・ロイヤルの壊滅と前後して、イングランドは海賊を擁護する姿勢を改めるようになりました。17世紀の終盤にはスペインの国力も弱体化しており、イングランドにとって海賊は不要な存在になりつつあったのです。
本拠地と国による後ろ盾を失ったカリブ海の海賊は、海上を漂って私掠行為を繰り返すようになり、やがて衰退していきました。
ちなみにジャマイカは、海賊の全盛期の様子を垣間見ることのできるポート・ロイヤルの海底都市を世界遺産に申請していますが、1988年の審査では不登録となっています。
インド カンベイ湾海底遺跡
2002年1月6日、インドのニューデリーで、カンベイ湾で海底遺跡が発見されたという記者会見が行われました。
当時、インド国立海洋技術研究所(NIOT)は、海洋汚染が進むインド西部のカンベイ湾を調査する作業を実施しており、調査に使用していたソナーに映ったのが、海底都市の映像だったのです。
その後、1度目の調査で海底から化石化した人骨や磨製石器、土器片、象牙、宝飾用半貴石など2000点以上の引き揚げに成功し、川の堤防に沿って9kmに及ぶ都市状集落や浴場のようなプール大の構造遺跡、穀物庫と思われる巨大な建造物などの存在を確認しました。
そして、異物の中にあった化石化した木片を鑑定したところ、この遺跡が9500年前のものであることが分かりました。
インダス文明の繁栄期は4500年前とされるため、9500年前の遺物となると、世界四大文明よりはるか以前に栄えていた超古代文明があったことになります。
また、カンベイ湾遺跡の建造物の中にはインダス文明との類似点を持つものも見られることから“権力者の見えない不思議な文明“と呼ばれるインダス文明の、謎を解く鍵があるのではないかとも考えられました。
このような背景から、世界初の国家プロジェクトとしての海底遺跡調査がインドで行われるようになったのです。
また、一説にはカンベイ湾遺跡は、ジャワ原人の故郷であり多くのサピエンスが住んでいたという、東南アジアのスンダランドと関係があるのではないか、とも考えられています。
スンダランドに独自の文明があったという直接的な証拠はないものの、最終氷期も温暖で地理的に恵まれていたこの土地では、いち早く成熟した文明が築かれていた可能性があると予想されているのです。
そして、スンダランドの文明が西はインドから東は沖縄周辺まで影響を及ぼしたのではないかと考察されており、早くにヒトが進化したスンダランドの謎を解明する鍵となる可能性があることからも、カンベイ湾海底遺跡の調査は注目されています。
イタリア バイア
バイア海底遺跡は、イタリア南部のカンパニア州にある港町、バイアで1956年に発見されました。
バイア上空にいたイタリア軍のパイロットが撮影した写真に写りこんでいたことで、存在が知られるようになったこちらの海底遺跡は、溶岩の圧力の変動により地盤の上昇と下降を繰り返している海域に位置します。そのため、1956年に突然その存在が明らかになったのです。
火山の通気口の上に位置するこの町は、古くから多くの温泉を有する保養地として栄えており、かつてはネロ、シセロ、シーザーなど数多くの権力者達もバイアを訪れ、別荘地として利用していました。
一時期はラスベガスのように栄えていたとされるバイアですが、8世紀にサラセン人に襲撃されたことで、ローマ人達はこの町を捨てることとなりました。そして、ここに栄華を極めた都市があったことは忘れ去られていったのです。
今日ではバイアの海底遺跡は、世界でも数少ない水中考古学公園として開放されています。
環境客用にガラス張りのボートも出向しており、シュノーケリング、スキューバダイビングなどで、崩れた建造物や、驚くほど保存された彫像を間近に見ることができるそうです。
バイアの海底遺跡はとりわけ彫像の保存状態が良く、水中では皇帝グラディオの彫刻や袋を持ったオデュッセウスの彫刻などが見られると言います。
エジプト クレオパトラの海底宮殿
水中に眠る海底遺跡の中でも“世紀の大発見”クラスのものの一つに挙げられるのが、1996年にエジプトのアレクサンドリア港内の海底で見つかった、古代エジプトの女王・クレオパトラ(紀元前69~30年)の宮殿でしょう。
絶世の美女であり、古代ローマの英雄カエサルをも虜にした傾国として知られるクレオパトラですが、当時の遺品はほとんど発掘されていないため、彼女の実像は謎に包まれていました。
しかし、フランス・エジプトの合同調査隊で、1996年に約2000年前に存在したプトレマイオス王朝の宮殿跡や、クレオパトラが住んでいた宮殿、そして彼女と恋仲であったローマの戦士アントニウスの住居跡など超A級の遺跡が、水中から発見されたのです。
地中海に面したアレクサンドリアは、約2300年前にマケドニアのアレクサンドロス大王(紀元前356~323年)が植民地として建設を開始した都市で、プトレマイオス王朝の首都として、また地中海貿易の中心地として繁栄しました。
しかし、5世紀に起きた大地震の影響で水没し、以来クレオパトラの伝説とともに幻の都市となっていったのです。
アレクサンドリア沖に眠る海底遺跡については、1980年代から調査が進められてきました。しかし、古代の地図は残っておらす、海水の透明度も低さや現在のアレクサンドリアが軍事基地であることなどが原因で、調査は難航しました。
ところがその後、衛星写真などの科学技術を使うことで、アレクサンドリア港内の推進6m付近に建築物の残骸があることが分かったのです。
他にも1995年10月、アレクサンドリア港の入り口に立つカイトベイ要塞付近の海底から、世界七不思議のひとつである“ファロスの大灯台”が発見され、その一部が引き揚げられました。
以前より何度か地元の漁師が小さな遺物を引き揚げたことがあったため、アレクサンドリアの海底には古代の遺跡が眠っているという噂がありました。
そのため、エジプト政府が港湾整備のために巨大なコンクリートブロックを湾内に沈めたところ、国民からはまだ見ぬ水中遺跡を壊すのではないかと非難の声が上がり、ブロックを引き揚げたところ、その下からファロスの大灯台の一部が発見されたのです。
高さ推定130mとされるファロスの大灯台は、紀元前3世紀に造られたというギザのピラミッドに並ぶ古代の巨大建造物です。
古代エジプトの重要な遺跡である海底宮殿とファロスの大灯台が発見されたアレクサンドリアの海域は、2001年からエジプト政府によって解放され、一般の潜水が許可されるようになりました。
また、この地には海底ミュージアムが建設される予定もあり、完成すれば見学者は水中に残る海底遺跡と、引き揚げられて陸上で保管されている特に重要な遺跡の両方を見学できると言います。
ミュージアムが建設される予定の場所は、アレクサンドリアの図書館“ビブリオシカ・アレクサンドリア”の近くで、この場所はクレオパトラが自害する前に、恋人のマルクス・アントニウスと身を隠したとも伝えられている場所です。
中国 ライオンシティ
中国の浙江省杭州市に位置する千島湖。この湖の下に眠るのがライオンシティ(獅城)と呼ばれる、海底都市です。
“中国のアトランティス”とも呼ばれるライオンシティを有する千島湖は、573平㎢にも及ぶ広大な湖で、その名前は湖に1000以上の島があることにちなんでいます。
千島湖は、1959年に浙江省を流れる銭塘江の上流に新安江貯水池と、新安川水力発電所が作られた時に生まれた人工の湖です。
水力発電所の設立は国を挙げての一大プロジェクトであり、千島湖の下には純安県と遂安県の県城2つが水底に沈み、このうちの一つが、五狮山の麓にあることからライオンシティと呼ばれるようになった水中遺跡です。
2001年に調査が行われるようになるまで、千島湖に沈んだ都市の存在は忘れ去られていました。しかし、調査を行ったところ、ライオンシティを含む湖に沈んだ町のほとんどが、ほぼ風化することなく、綺麗な状態で残っていることが分かったのです。
千島湖に沈んだ一連の遺跡は、2011年には浙江省の保護の下で歴史的遺物に指定され、研究者によるマッピングやダメージを防ぐための保護対策が検討されています。また、一般への公開もされており、千島湖はダイバーが集まる人気のスポットにもなっています。
バハマ ビミニ海底道路
ビミニ沖の浅瀬で、人工物と思われる巨石道路が発見されたのは1968年のことでした。これは、アメリカのマイアミ科学博物館の名誉館長であったマンソン・バレンタインの発見によるもので、アトランティスの遺跡の一部として発表されました。
この発表の後、同じバハマ海域のアンドロス浅瀬の海底でも同じような構造物が発見され、これは南米ペルーに存在する紀元前のプレインカ神殿跡の長方形構造と酷似していることが分かったそうです。
この後もバハマやバミューダ海域では相次いで海底道路の発見が報告され、1977年にはバミューダ海域の南橋に出漁していた漁船のソナーが、ピラミッド型の構造物の存在をキャッチしました。
これらの海底道路については、1075年と1977年の2度にわたってマサチューセッツ工科大学の技術協力のもと調査が行われており、次のような結果が得られています
・自然がつくる地形では最高50m以上は直線構造にならないが、ビミニの海底道路は一直線に600m以上伸びている
・石のそれぞれは自然の形成物としも、その配列は人工的である
・岩石サンプルを放射性年代測定にかけたところ、これらの岩石が地表に露出した時期は約1万5000年前と判明した
・形状が似ているので道路を呼ばれるが、実際は宗教的儀式化天文観測に用いられた建造物の一部に見える
・人の手で切り出したと思われる切り石の他、凸型のヘリと直線的な彫り溝が見られ、明らかに人が加工したと思われる石がいくつか見つかっている
そして2001年にカナダのADC(前衛デジタル通信)という調査会社が、キューバ科学アカデミーとの共同調査で、キューバ最西端沖の水深700mの海底に12㎢に広がる石造都市遺跡らしきものを探知しました。
この都市遺跡と思われるものがアトランティスと関係を持つのではないかとも言われていますが、現地の調査が進んでいないことから、実際に石造都市遺跡が存在しているのかも、現段階でははっきりしていません。
また、ビミニの海底道路についても、上の写真のオーストラリアのタスマニア島の沿岸部を撮影したもののように、自然の構造物である可能性も指摘されています。
沖縄 与那国海底遺跡
与那国海底遺跡は、1986年に地元のダイバーによって発見されました。そして、この報告を受けて琉球大学の理学部教授である木村政昭博士が調査に乗り出しました。
日本で唯一、自ら海に潜って地質調査をしてきたベテランのダイバーである木村博士から見ても、与那国の巨石建造物は異様な光景であったと言います。
巨大な階段状の地形がそびえ立ち、海面近くまでせりあがっている光景は圧倒的なスケールを感じさせましたが、この時は木村博士もまだ、自然の構造物である可能性は捨てきれないと考えていたそうです。
与那国海底遺跡が見つかったのは与那国島の南岸の新川鼻の沖合100m、水深25mの位置でした。実はこの場所に奇妙な形状の岩場があるということは、半世紀ほど前から地元の漁師の間で噂になっており、1986年にダイバーの発見を地元のマスコミが報道したことで注目を集めるようになりました。
構造物の大きさは東西250m、高さ26mで、階段やテラス、周回道路のようなものが見られ、全国ネットの放送でも取り上げられたことで世界的にも有名なスポットとなっていきました。
多数訪れた外国の地質学者や水中考古学者の中には、ベストセラー『神々の指紋』の著者であるグラハム・ハンコックの姿も見られたと言います。
しかし、木村博士がこの遺跡で注目していた点は、テレビなどで頻繁に紹介される直角に切り取られた階段状の部分ではなく、ピラミッドを想起させる全体の形や、くぼみの中に柱を立てたような不自然な穴が見られる通称“三角プール”と呼ばれるスポットなどでした。
一方で、この海底遺跡の岩は長い時間をかけて砂や泥がサンドイッチ状に堆積してできたものであり、一枚ずつはがれやすい性質を持つうえ、縦横の割れが発達しているので、自然にこのような構造物ができても不思議ではないとも考えられました。
引用元:https://www.spf.org/
しかし、最終的に木村博士は与那国海底遺跡が人工物なのではないかという結論に至ります。その一番の決め手となったのが、遺跡から発見された石器の発見です。
文字のようなものが刻まれていたり、台湾で使われていたものに酷似した特徴を持つものなど、明らかに人の手が加わったものが複数発見されたのです。
更に周囲の海底も調査したところ、5つの海底構造物が存在することが分かり、これらが集合して一つの都市を形成している可能性も出てきました。
引用元:http://welcome-yonaguni.jp/
与那国海底遺跡が自然構造物だとする有力な根拠として、与那国島の新川鼻から2.5kmほどの場所にある“サンニヌ台”の存在が挙げられます。
外観が海底遺跡とよく似ているサンニヌ台が自然の構造物なのだから、海底にあるものも自然にできたはずだと言うのです。
これに対して木村博士は調査の結果、節理に逆らって円形に加工された箇所や、周辺から巨大な鳥の絵を記したようなレリーフが発掘されたことから、サンニヌ台も人工物の可能性があると結論付けました。
木村博士の考察が真実であるのならば、与那国島には未だ知られていない古代の巨石文明が存在したことになります。
ギリシャ パブロペトリ
引用元:https://www.bbc.co.uk/
世界最古の海底都市と呼ばれるパブロペトリは、2011年にイギリスの国営放送・BBCがレーザースキャニング技術を駆使して3次元モデルを再現したことにより、世界的に存在が知られるようになった遺跡です。
パブロペトリが最初に発見されたのは1904年。ラコニア南部のエラフォニソス島とプンタビーチの間の海底に古代都市が存在することが、地質学者によって報告されました。
そして1967年に水深3~4mの位置に水没した都市群が確認され、翌年にはケンブリッジ大学の調査隊が、この水没した古代都市の地図を作製したのです。
ケンブリッジ大学の研究チームはこの調査で、多くの建物や広場がある先史時代の住宅街を発見しました。そして、パブロペトリの海底で発見されたこれらの建造物が、紀元前1680~1180年のミケーネ時代のものであることが判明しました。
この遺跡の驚くべきところは、町のデザインの完成度の高さにあります。道路や庭園のある2階建ての家、寺院、墓地などの建造物を複雑な水路が囲んでおり、市の中心部には、約40×20メートルの大きさの広場が存在します。そして、家屋には最大12もの部屋があり、洗練された構造をしていると言います。
引用元:https://www.bbc.co.uk/
上の画像は、遺跡群からBBCが3Dでモデリングした、地上に存在した頃のパブロペトリの予想図です。これだけ完成された都市が海底に沈んだ理由としては、地震による地盤の変動という説が有力視されています。
また考古学者の間では、パブロペトリはミノア文明とミケーネ文明の商業の中心地であったと考えられています。この海底都市からは 粘土や彫像、日常の道具や工芸品も発掘されており、現在はUNESCOの世界文化遺産に登録され、保護されています。
まとめ
陸上の遺跡よりも調査が困難な印象を受ける海底遺跡ですが、条件が良ければ炭素年代測定により、地上に存在していた年代まで正確に割り出すことが可能なのだそうです。
そのため、与那国海底遺跡やビミニの海底遺跡など、詳細が分かっていない遺跡群についても分析が進み、歴史的な調査報告がされる可能性があります。
海底の遺跡を調査する海底考古学は発展の途上にある学問とされており、今後しっかりと確立されていくことで、世界中の海に眠る遺跡群の詳細な調査が可能になるのではないかと期待されています。