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日本の歴史上最強の城7選

日本全国にある城の総数は、4万~5万と言われています。信じがたい数字ですが、実は石垣のある城自体が少なく、さらにそこに天守閣のあるものという条件をプラスすると、日本にあった城の総数の1割にも満たなかったのではないかと考えられているのです。

現在広く知られているのスタイルは織田信長や豊臣秀吉が作りだしたもので、実際に存在した城のほとんどが土を盛ったりしただけのシンプルで実用的なものであったため、天守閣と石垣のある城自体が珍しかったとされます。そんな日本の城の中から、最強と言われる城を紹介していきます。

 

理論上は最強・熊本城


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熊本城を築城した加藤清正は「石垣の名人」と呼ばれ、熊本城以外にも肥前名護屋城、江戸城、名古屋城と数々の築城に携わったという城づくりの名手として知られる名君です。

城以外の治水や干拓の名手でもあったとされ、現在でも熊本県内では清正公による水事業の跡が多く見られるうえに、現役で使われているものもあります。

熊本城の築城は1591年(天正19年)頃で、1607年に完成しました。5重の望楼型の天守を有し、最上階には廻縁が設けられていて小天守が接続。そして、その天守と同じくらいの規模の3重5階、地下1階の大型櫓が敵を迎え撃つ役目を果たします。


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城壁の上に長く築かれた櫓を「多門櫓」と呼びますが、当時の弓矢や鉄砲、大砲などの武器では、多門櫓にはとても歯が立たなかったと言います。熊本城では田子櫓、七間櫓、源之進櫓などの短い平櫓と多門櫓が連なっており、本丸を強固に守る役割を果たしました。また、櫓は武器庫としても使われていました。


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熊本城の石垣は「武者返し」と呼ばれており、上に行くほど傾斜が強くなっていることから忍者であっても登ることはできないと言われていました。外から侵入するということが、まず不可能だったのです。

建物全体が黒板張りであったことから「黒い城」と呼ばれた熊本城ですが、別名「銀杏城」とも呼ばれていました。これは万一籠城などがあった場合に食料とするために、城内に銀杏が植えてあったことにちなみ、籠城への備えもあったと言います。

このように堅牢な守りを誇り理論上は最強と謳われる熊本城ですが、実戦で使われる機会に恵まれませんでした。熊本城完成の4年後に城主であった清正公が死亡、その後に息子の加藤忠広が後を継いだものの陰謀事件や怪文書事件が重なって、1632年(寛永9年)には加藤氏に改易、忠広は他藩預かりとなってしまったのです。

その後に細川氏が熊本城を収め、薩摩の島津氏を抑える拠点とされましたが、江戸時代の間は熊本城が攻め込まれることは無く明治時代の西南戦争の折に初めて争いの場となりました。

そして西南戦争の折に兵糧攻めや水攻めで熊本城を落とすことができなかった西郷隆盛が、「ワシは清正公に負けた」と言ったというエピソードが残っていることから、戦国時代の実戦でも十分に持ちこたえられる城であったと考察されています。

西郷隆盛は城を落とせなかった理由を、敵の官軍に負けたとはのではなく築城した清正公に負けたと分析したのです。

ちなみに加藤清正は熊本城築城の際に男女関係なく動員し、しっかりと全員に給金を支払ったと言います。必要以上に働かせるようなこともなく、築城の事業は農閑期に行って農民の生活を保障するなどの配慮もしており、名君として熊本の人々から慕われていたそうです。

そのため、西南戦争の最中に熊本城の天守閣が原因不明の炎上をした際には、城下の人々は「清正公のお城が燃えている」と嘆き悲しんだというエピソードも持ちます。

 

日本初の西洋式の城・五稜郭


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幕末になって蝦夷地を外国から防衛する必要を感じた江戸幕府は、箱館(現在の函館)に五稜郭を築きました。完成した時は1864年(元治元年)です。

上から見ると星型であることが有名な五稜郭ですが、これは「稜堡(りょうほ)式城郭」と呼ばれる、西洋式の築城術を築城術を取り入れたスタイルなのだと言います。稜堡式城郭は16世紀から18世紀にかけてヨーロッパで流行した築城術で、鉄砲や大砲の射線を死角が出ないように、交差させて城を守れるように幾何学を応用したものです。

「稜堡」というのは三角形の尖がりのことで、これが5つあるために「五稜郭」。稜堡の数は地形や城のサイズに合わせて決めるため、ヨーロッパには歯車のような城もあります。とは言え幕末の頃にはヨーロッパでは更に近代的な要塞が主流であったため、稜堡式は時代遅れとなっていたのですが、当時の日本では最新の洋式軍事施設でした。


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五稜郭を設計したのは、武田斐三郎という武士です。そして1868年(明治元年)に榎本武揚や土方歳三が率いる旧幕府軍が蝦夷地に上陸し、箱館、松前、江差などの北海道南部を制圧した際に、蝦夷地の平定と新政権の誕生を箱館にいる外国の領事に宣言しました。そして、その本拠地となったのが五稜郭だったのです。

しかし、この翌年の4月には総勢8000名の大軍が五稜郭めがけて迫り、旧幕府軍は各地で敗れて5月17日には五稜郭は開場されました。五稜郭は、土方歳三終焉の地としても知られています。


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実はヨーロッパの稜堡式城郭は、横並びに何列も並んだ歩兵に対して真横から低い弾道で砲弾を撃ち込むことで、地面にバウンドした弾で敵兵たちをなぎ倒すという目的で設計されたもの。

しかし、日本の稜堡式城郭では置くべき場所に大砲が置けなかったりと、大砲の射線がうまく通っていなかったりと、大砲で城を守るという原理が良く分かっていないまま形だけ稜堡式築城術を取り入れたものでした。

ただ、外国製の大砲による攻撃にこたえられるように土塁は分厚く築かれており、防衛面では優れていたとされます。

 

難攻不落・小田原城


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小田原城は初代の北条早雲から5代目の氏政まで、およそ100年に渡って関東に大きな勢力を持った北条氏の居城です。箱根の山中には30を超える曲輪が築かれ、平野部に天守や御殿を築いた平城と山頂に本丸を築いた山城をミックスした梯郭式の城としては、最大規模を誇ります。

豊臣秀吉の攻めに備えて造られた小田原城の総溝は周囲約9kmもあり、土塁や空堀をめぐらせた戦国時代最大規模のものであったと言います。

1589年(天正17年)、度重なる上洛の要請が無視されたことから、秀吉は21万人余りの軍勢を動員して自ら指揮をとる形で小田原城に向けて出陣しました。正攻法で落とせる城ではなかったため、城を取り囲む長期の持久戦で攻め落とそうとしたのです。


引用元::http://www.city.odawara.kanagawa.jp/

この時、なんと秀吉は側室の淀殿を呼び寄せ、諸将にも妻や妾を連れてくるように命じていたと言います。小田原城攻略が長期戦になることを見込んで、京から文化人や舞の名手も呼び寄せて将兵の士気が下がるのを防ごうとしたのです。

また、小田原城を見下ろす石垣山に一夜にして城を築いてみせたり(上の画像が石垣山一夜城の跡地)、スパイを暗躍させるなど秀吉の策は一枚上手でした。

最終的には小田原城に重臣が集まっていたために周囲の城が全て落とされ、内部に謀反を図る者がでるなどの問題が続出して、秀吉軍が出陣してから4ヶ月で、北条氏は和議を受け入れて投降しました。

江戸時代には徳川家康の配下に置かれた小田原城は家臣の大久保氏が城主となり、その後には稲葉氏が城主となって近世城郭として整備されました。小田原城は関東防衛の要の役割を果たし、幕藩体制を支える譜代大名の居城として幕末まで活躍したのです。


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しかし、明治に入ると天守を含むほとんどの建物は解体され、関東大震災によって石垣も崩壊してしまいました。そして1960年にコンクリートで天守が復元、常盤木門や銅門も復元され、現在のような城址公園が整備されました。

 

最強の要塞・江戸城


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徳川歴代将軍の居城として知られ、江戸幕府の中枢であった江戸城。もともとは12世紀に江戸重継が館を構えたことに始まり、1457年(長禄元年)に太田道灌がこの館の跡地に江戸城を築城しました。

しかし家康が江戸に入った当時の江戸城は、土塁を巡らせただけの非常に簡素なつくりで、居館も荒れ果てて玄関は舟板の古材が使われているといった粗末な状態であったと言います。

そのうえ当時の江戸は現在の日比谷あたりまで江戸湾が入り込んで、あちらこちらに沼や溜池があって葦原が続く湿地帯でした。そこで家康は、まず江戸川の水を市中にひいて飲み水を確保して堀を開削して江戸湾から船で城中まで入れるようにしました。そして河川には橋を架けて、湿地を埋め立てて家臣の屋敷を造営しました。


引用元:https://serai.jp/

家康は1608年(慶長8年)に幕府を開くと、全国の大名を集めて江戸城の開拓に取り掛かったと言います。神田山を切り崩し、その土で日比谷の入り江を埋め立て町家をつくったのですが、この埋め立てた部分が現在の築地や銀座に相当します。

そして家康の代で江戸城の本丸、二の丸、西の丸が設けられて、本丸には高さ48mの白亜の天守閣が築かれました。その後に天守は2代の秀忠と3代の家光の時代に建て替えられて、家光の代では天守の総高が51m、屋根は銅瓦でふき、壁は銅板の黒塗りになったと言います。

家康の死後も普請が続いた江戸城は、家光の代に本丸を二の丸、三の丸、西の丸、北の丸と膨大な広さの吹き上げが囲む大規模の城として完成しました。

もともと江戸城は立地的に海に向かって突き出した台形の先に築かれているため、城域を広げると守りにくくなるというデメリットを抱えていました。この弱点を克服するべく、ひたすら土木工事を重ねたことから最終的に門や櫓、多門櫓も強固になり、現在でも千鳥ヶ淵あたりから北の丸や本丸方面を眺めると、城のために費やされた土木量の凄さがうかがえます。


引用元:https://www.smartmagazine.jp/

しかし、この寛永期の天守閣は1657年の江戸の大火で焼失、それ以降は再建されませんでした。天守の再建には莫大な資金が必要であったことから、再建は見送られ続けたそうです。

その後も1863年の火災でも本丸や二の丸、西の丸も焼失しましたが、江戸城が戦禍に見舞われることはありませんでした。倒幕の際も無血開城がされたことから、戦いの舞台にはなりませんでした。

当時の江戸城の城郭は現在の千代田区とほぼ同じ範囲であったと言い、外郭に設けられた出入りのための門は20の見附が設けられており、赤坂見附など現在の地名に残っているものもあります。

ちなみに主要な門の1つとして名前が残っている半蔵門は、伊賀忍者の服部半蔵の屋敷があったことにちなんで付けられた名称です。非常事態の際には半蔵門から忍者を伴って、将軍が甲府に向けて脱出することになっていたそうです。

 

日本一の名城・大阪城


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大阪城の場所は、もともとは石丸本願寺があった地でした。1583年(天正11年)に秀吉の天下統一事業が進む中、城の三方が低地になって本丸は上にあり、信長も攻めあぐねたという石丸本願寺を大阪城に改築するという計画が持ち上がったのです。

石丸本願寺の位置した北の台地には淀川とその支流が流れていて、いずれも天然の堀の機能を果たしていました。また、そこから城内の堀へと水を引き込むように計画したとされます。

さらに既に強大な権力を手中にしていた秀吉は、自らの城の天守が大阪の市内からくまなく望めるようにと、位置や街路まで工夫。竣工まで約3年の歳月をかけたという大阪城の内部には、黄金の茶室も設けられており、秀吉の権利の象徴として人々を圧倒しました。


引用元:https://www.sankei.com/

秀吉の居城という印象の強い大阪城ですが、j実際には秀吉自身はあまり大阪城には居住していなかったと言います。秀吉は京都の聚楽第や伏見城に拠ることが多く、これは当時はまだ調停の所在地として京都に権力が集中していたためと考えられています。

本格的に大阪城が使用されるようになったのは秀吉の没後で、秀頼が本丸入りをした際に徳川家康も西の丸に入り、実質は徳川家の城として運用されていったのです。そして1614年(慶長19年)に大坂夏の陣の火ぶたが切って落とされると、家康は秀頼に容赦のない攻撃を続けて淀殿ともども自害に追い込みました。

大阪城夏の陣・冬の陣で大阪城は焼け落ちた後、大阪は家康の外孫にあたる松平秀忠に下されましたが、1619年には幕府直轄となり、翌年の1620年からは秀忠によって大阪城の再建が始まり、約9年を費やす大工事が行われました。


引用元:http://www.occpa.or.jp/

新しい大阪城は豊臣時代の大阪城の数m上の盛り土をが行われたため、かつての遺構は全て地中に埋まることとなりました。天守の構造も全く異なるものとなり、秀吉を偲ぶものは全て地中に眠ることとなったのです。

政治の中心は江戸に移りましたが、まだまだ大阪は戦略上の要地であることに変わりありませんでした。そのため徳川期には城の規模は豊臣時代の2倍となり、現在残っている大手門、多門櫓、焔硝蔵、千貫櫓なども全て江戸時代に造られたものです。

 

天下普請の名城・彦根城


引用元:http://hikone-410th.com/

彦根城は琵琶湖東岸に築かれた平山城で、江戸時代を通して井伊家35万石の居城でした。彦根城の基礎を築いたのは「徳川四天王」の1人である井伊直政です。直政は15歳で徳川家康に召し抱えられ、異例の出世を果たしたと言います。

関ヶ原の戦いの功績を認められた直政は、家康から大阪の豊臣氏と豊臣恩顧の大名たちをけん制する目的で彦根を任されることとなりました。そして、かつて石田三成が居城とした佐和山城に入ったのですが、戦乱で荒廃しきっていたことから新たな居城の建設を考えたと言います。しかしながら関ヶ原の戦いで負った鉄砲傷が悪化して、彦根城の完成を見る前に直政は亡くなってしまったのです。

直政の事業を引き継いで琵琶湖の湖畔に彦根城を築いたのは、当時13歳であった息子の直継でした。彦根城の築城は家康にとっても西国大名の抑えのために重要であり、近隣7ヶ国12の大名に協力を命じたと言います。そして佐和山城や安土城、大津城、小谷城など廃城になった近江の城の建造物や石垣を再利用して、急ピッチで工事が進められました。

途中、大坂夏の陣や直継の病気により作業は中断されましたが、跡を継いだ直継の弟の直孝が築城と城下町の整備を続け、彦根城は1621年(元和8年)に完成したとされます。


引用元:http://www.city.hikone.shiga.jp/

城は周囲4km、標高約50mの彦根山に本丸を築き、内堀、中堀、外堀をめぐらしてさらに南には芹川、西には琵琶湖、北には松原内湖が天然の堀の役目を果たしました。堀と堀の間には武家屋敷、寺社、町屋を置き、彦根城は城下町全てを要塞化したのです。

彦根山は別名「金亀山」と呼ばれるように、亀の甲羅のような形をしています。尾根を分断して、東から鐘の丸、本丸、西の丸、さらに出郭が造られました。さらに山の側面には横の移動を妨げるように、型堀とバリケードのような登り石垣が幾筋も造られました。

また本丸に建つ三重三階の天守は1606年(慶長6年)に完成したもので、これは大津城の5層の天守を移築・改修したものです。関ヶ原の戦いにおいて、決して落ちることのなかった大津城の天守を移築することで、現存する日本の城の天守としては最も多い、18もの破風を持つ彦根城の天守が完成したと言います。

天守以外の建築遺構は、西の丸の三重櫓、太鼓門、天秤櫓、二の丸佐和口多門櫓、馬屋などが挙げられます。また、彦根山の木々は築城後に植林したもので、縄張りを見えにくくするという役目や、戦時の食料や部区の材料の確保のためのものでした。


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彦根城の天守閣は、模造や復元ではなく現存天守です。付櫓を通って大天守に入るようになっており、付櫓の中に侵入者が見られたら、銃撃できるように大天守側に隙間が設けてあります。一見優雅に見える彦根城の天守ですが、守りを強固にするための工夫が凝らされており、実戦的なつくりをしていたことが分かります。

 

信長の原点・岐阜城


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岐阜城は標高329mの金華山の山頂部に築かれた山城です。別名「稲葉山城」「金華山城」とも呼ばれています。岐阜城の創建は鎌倉時代初期にさかのぼり、一時期は100年に渡って廃城の時期が続きましたが、15世紀頃に美濃国の守護代であった斎藤利永が居城と定めました。

岐阜城を有名にしたのは、斎藤道三と織田信長という2人の名将です。道三が美濃に入った当時、国を守護していたのは土岐氏でした。しかし、道三はその家老を謀殺して実権を握り、主君である土岐頼芸を追放したのです。まさに戦国時代の代名詞でもある下剋上を果たして稲葉山城(後の岐阜城)を手に入れた道三でしたが、そんな彼が恐れたのが娘である濃姫の夫でもある織田信長でした。

道三が岐阜城に入ったのは1538年(天文7年)のことです。城を修復する傍ら井之口の町の整備も行い、城下町も整備したと言います。

その後、道三は息子の義龍に城を譲りましたが、1556年(弘治2年)になんと義龍に殺害されてしまいます。そしてその義龍も間もなく病死したことから、その息子である龍興が跡を継いで岐阜城を守ることとなりました。

しかし、この龍興は「暗愚」と呼ばれるような人物で、祖父のような勇猛果敢さはありませんでした。そしてこの頃、天下統一の足掛かりとして美濃を攻略しようとした信長に攻め込まれ、ついに1567年(永禄10年)に、稲葉山城は信長の手に落ちたのでした。

ちなみにこの時の戦いで功績を挙げたのが、後に豊臣秀吉と名乗ることになる木下藤吉郎です。土地の豪族である蜂須賀小六とともに城内に忍び込んだ藤吉郎は、火を放った後に合図としてヒョウタンを振り、味方の軍勢を城内に引き入れたと言います。この功績で藤吉郎は旗印を許され、千成ビョウタンの旗印が誕生したのです。


引用元:https://www.tripadvisor.jp/

稲葉山城を手中におさめた信長は、その後の天下統一への足掛かりとなる本拠地をここに定めて、城の名前も岐阜城へと改名しました。また、有名な「天下布武」の旗印を使うようになったのも、岐阜に入ってからだと言われています。そうした意味でも高い位置づけを持った岐阜城ですが、信長はこの城に10年に渡って滞在したとされます。

信長はこの土地で城下町の復興に努め、商人以外のものでも自由に取引ができる「楽市楽座」の制度を敷き、商売を活発にさせて城下町の繁栄にも成功しました。その後、織田信忠、信孝、池田照正、豊臣秀勝らが入城しましたが、関ヶ原の戦いで石田三成側についた織田秀信が入城した際には、西軍と東軍の攻防の最中に福島正則らに攻め入られて、僅か1日で落城してしまいます。

地の利を活かして数々の武将の居城として活躍した岐阜城でしたが、平時には金華山の頂上にあるという不便さが仇となり、1601年(慶長6年)に徳川家康の命によって廃城。代わりに岐阜には平城の加納城が築城されました。一説によると信長が天下統一の願いを込めて名付けた「岐阜」という名称を家康が嫌ったために、岐阜城を廃城にして加納城を築城したとも言われています。

 

まとめ

戦国の世では城は使い捨てられる存在でした。作戦上の必要から様々な城が築かれては、作戦が変更になったり、戦況が変わったという理由で打ち捨てられたと言います。

また、大名同士が和睦する時にはいつまでも城に守備隊が詰めていたら交渉がまとまらなくなることから、和睦の際には城を取り壊して兵をを引き上げることも珍しくなかったとされます。このようにしてあちこちに城を築いては捨て、壊し、別の場所に築きなおしといったことを日本中で100年以上も続けてきた結果、何万もの城が築かれたのです。

特に宇和島城のような平和な時代に築かれた城以外の戦国時代に築かれた城には、現存しているものも城跡だけになっているもの、ドラマを持ったものが数多く存在します。今回紹介したような最強の城とは違い、写真映えがしない地味な城にも面白いエピソードが多く、どんな城についても調べてみると興味深いものですよ。

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